正しい二時の迎え方
やまこし
正しい二時の迎え方
キーボードを叩き続ける。
カタカタ、カタカタと。
乱暴な言葉も、照れ臭い球速160キロのストレートも、見たことのない世界の聞いたことのない会話も、胸の中にある言葉にできない感情も、すべてをキーボードに叩きつけて、画面の上に織りあげていく。
カタカタ、カタカタと。
途中でふと、頭の中の言葉が途切れる。
ぷつり。
キーボードから手を離す。そしてそのまま、手を天井に向けて伸ばす。緊張していた筋肉がひとつひとつ弛緩していくのを感じる。そのゆるみには快感を伴う。大きく息をひとつ吐くと、この世の中がとても静かであるということに気づいた。いつのまにか、空気のゆらめきを感じない、静かな夜が訪れていた。時計を見ると、深夜二時を回るところだった。
「あともうちょっとかな」
小説家の秋山みのりは、下の階に音が響かないようにそっと椅子を引いた。椅子の脚に履かせた小さな靴下がずれる感覚を覚える。あとで履かせなおさねば。
みのりを入れた四人の同居人のうち、一人くらいはまだ起きてゲームでもしているだろう、と予想しながら扉を開けた。みのりを待っていたのは、永遠にも思える暗闇だった。
「あれ、みんな寝たか」
リビングで布団を敷いて寝ている一人を起こさないように、泥棒のようにそっとキッチンへ向かう。キッチンの蛍光灯をつけると、ブン、といやな音がした。昼間に聞くぶんにはなんとも思わない音の一つだが、今はセキュリティーシステムが反応してしまったような気にでもなる。チロチロと水道水を出し、コップに注いでいく。なにかとても悪いことをしているような気分になってきた。複雑なセキュリティーをくぐり抜けれられず、警報音を鳴らしてしまった泥棒って、こんな気持ちなんだろうか。
コップの水を口に含み、減った分の水をまた追加する。
そしてまたそっとリビングを横切って、部屋に戻る。
部屋では、パソコンの画面がぼんやりとこちらをみている。
ふと、この世の中に自分しかいないような感覚に落ちていく。深海だ。海に深く、深く沈んでいく感じがする。体は地上にはない圧を感じながら、ゆっくりと下降していく。いま、この世界には、自分しかいない。自分だけだから、ここでそう、息をするのをやめてしまったら、ただただ海の底に沈んでいくだけだ。
涙が頬を伝う。
空気に触れた涙は、少し冷たい。その冷たさに目が覚める。
いけない。
こういうときは、インターネットという救助船に飛び乗る。自分以外の誰かを求めて、キーボードを叩く。いつも見ている動画配信サイトを開くと、トップページに幾つかの動画がサジェストされている。そのうちのいくつかの右下には、赤いアイコンがついている。これは、今配信をしているという証拠だ。誰でもいい、知らなくてもいい、知っている人だったら、もっといい。
すがるようにクリックすると、いつも視聴している人だった。なんの話をしているのだろう。最近ハマっているコーヒー飲料の話だ。おいしいよね。わかる。画面の左側にはコメントが流れ続ける。
「おいしい」
「今日飲んだ!」
「どこで買えるの?」
「明日誕生日なんだ!お祝いして!」
「それ〇〇も飲んでた」
「わかる、おいs」
「なんか体に悪いらしいよ」
「おいしいよね〜」
「●●のほうがうまいゾ」
「ちょっと高くて買えない」
「おいしいよね!」
「わかる」
「うまいよな!(肩組み)」
生きている。
多分、みんなこの静けさのどこかで生きている。自分だけがここにいるわけじゃない。果てしない海底なんかでも、陸の見つからない海の上でもない。この世界のどこかで、共感して、否定して、主張して、すきときらいを伝えている。みんながここで、たぶんここで生きている。
「よかった…」
気づいたら、傍にはメモ帳の柄の折り鶴が量産されていた。小学生の頃から、落ち着きたい時に折り鶴を折る癖がある。
「大丈夫、大丈夫…」
折り鶴の数だけ、大丈夫を唱える。落ち着いたら中断していた世界がまた広がり始めた。さっきの会話の続きを書こう。たぶん、書ける。
まだ少し震える手でキーボードにむかおうとしたら、背後で扉が開く気配がした。大きく振り返ると、そこには同居人の一人が立っていた。
「大丈夫?」
「大丈夫、じゃ、ないかも」
「悪夢を見て、目が覚めちゃって、水を飲みにきてね」
「うん」
「大丈夫ではない人がいるかも、とふと思ったんだよ」
共に暮らす人の勘はあなどれない。実際、大丈夫ではなかったわけだ。
「大丈夫では、ない」
「そうだよね」
「そう」
「どう、すればいい?」
「扉を閉めて、ここへきて」
「はい」
「そしてこのベッドの上で、寝てほしい」
「いいの?」
「いいよ」
「眠ってしまうよ?」
「自分も眠くなったら、一緒に寝てもいい?」
「いいけど」
「だったら、眠ってしまってもいいよ」
「わかった」
そういって、同居人はみのりと握手をしてベッドに入った。
手の震えは、いつのまにかおさまっていた。
カタカタ、カタカタと、物語の続きを再開する。
「うるさくない?」
そっと聞くと、同居人はもうすーすーと眠っていた。
カタカタ、カタカタと物語が織り上がっていく。
今ここで、生きている。
自分が生きている。
大切な人が、隣で生きている。温かさと、静かな寝息を伴って、午前2時に生きている。
みのりにとって一番さみしくて、一番得意な時間に生きている。今夜の正しい二時のむかえ方を選び取れた。そういう実感が、あの握手の中にはあった。右手をそっと握ったら、まだ温もりが残っているような気がした。
(了)
正しい二時の迎え方 やまこし @yamako_shi
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