じじじ。虫の羽音が耳に障る。

 あまりにも寝苦しい、とある初秋。卑弥呼の弟は気を紛らわせようと、ふらり夜道に降り立った。

 辺り一面、稲穂の海。時折、米食い虫が宙を舞い、彼の散歩の邪魔をする。それを避けて、歩いていると……。


 ……卑弥呼?


 黄金畑の真ん中に、月明かりに照らされた卑弥呼がいた。


 何故、卑弥呼がここに。寝ているはずではなかったか。

 同じく寝苦しかったのだろうか。彼はそう思ったが、だとしても夜中に巫女一人で出歩いているのは見過ごせない。まとわりつく草を払って、卑弥呼の元に駆け寄った。


 見ると、卑弥呼は何かと会話をしている。あれは、烏だろうか。

 ……いや、ただの烏ではない。暗闇の中でも光を放つ、八咫の烏。神の遣いだ。

 

 八咫烏に導かれるように、卑弥呼は稲の中を駆けていく。徐々に速く、息を荒げて。

 彼の心が、ざわと靡く。卑弥呼の足が地を離れ、今にも飛んでしまいそうに見えた。


「姉様!」


 卑弥呼を「姉」と呼んだのは、これが初めてだ。そのぐらい、彼は必死であった。


「姉様、何をしているのです──!」


 ──柔らかい手に触れた、その瞬間。彼の脳裏に、卑弥呼の思考が流れ込んできた。


 知らぬ時代。知らぬ国。知らぬ人々。知らぬ言葉を話し、知らぬ景色を見つめている。

 ここではない、どこか、知らぬ世界で。


 ……何だ、これは。


 到底処理し切れない情景の波に襲われ、彼は思わず目眩を覚えた。


 一体、何なのだ、これは。

 まるで遠い未来をこじ開けて、無理やり覗いているような錯覚に陥る。


 彼は思った。卑弥呼は、このようなものを見ていたのか。だから憂いた目をするし、無駄に物も言わぬのか、と。

 だが、卑弥呼は。これを見て何を想い、何を感じる? この気持ち悪さを抑えて、卑弥呼は巫女を務めているのか……。

 思いの丈が欠片となって、彼の喉元まで出かかった。だが、咄嗟のところで踏みとどまった。ほんの一瞬だけ、卑弥呼が女の顔をしていたからだ。巫女ではなく、ただの人の顔だった。


 だから一言、こう尋ねた。


「どこに、行かれるのです」


群青の空に、一筋の星が流れる。月読の神が、弓を引いたのだ。


「……行きませんよ。どこにも」


 黄金の稲が首を振り、卑弥呼の長い髪を揺らした。

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巫女・卑弥呼 中田もな @Nakata-Mona

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