5.決起の予兆

 大聖堂は静寂に包まれていた。高くそびえる柱の間を柔らかな太陽光が照らし、ステンドグラスに描かれた聖人たちの姿が床に映し出されている。そこに立つ二人は、皇太子セドリックと聖女エリス。


 セドリックは緊張した面持ちでエリスの前に立っていた。心の内は嵐のように乱れていたが、外に表れる冷静な顔は、少しばかり揺れながらも、一つの決意を固めていた。


「エリス殿、私はあなたに婚約を申し込みます」


 その言葉が彼の口から放たれた瞬間、大聖堂の空気が凍りついたかのように感じられた。エリスがセドリックをじっと見つめる瞳に、感情の色はなかった。まるで彼女の内面が、ここにはないかのように無表情だった。


「婚約、ですか」


 エリスはぶっきらぼうとも取れるような発音で、ゆっくりと口を開いた。


「それが帝国のためになると、お考えですか?」


 セドリックは一瞬、その質問に戸惑った。しかし、すぐに自信を取り戻し、頷いた。


「そうだ。私たちの婚約は帝国の安定に繋がる。教会と皇室が一つに結ばれることで、民衆の信頼を取り戻すことができるだろう」


「民衆の信頼?」


 エリスの声には、鼻で笑ったような皮肉めいた響きがあった。


「それは、あなた自身のための婚約ではなく、皇室と教会のための取引に過ぎない、と?」


 セドリックはその言葉に反論しようとしたが、鋭い視線が短い沈黙を強制した。彼は言い訳をすることができないと悟り、正面から問いに答えた。


「確かに、これは取引かもしれない。しかし、それが帝国の未来を救うのであれば、私には躊躇する理由はない。それに……私は君を愛している」


 エリスは言葉を聞いても表情を変えなかった。ただ静かに頷き、セドリックに対する嫌悪感すら感じられるような無表情でこう告げた。


「承知しました。その婚約を受け入れましょう」


 セドリックはその言葉に安堵したが、同時に無感情な反応に不安を覚えた。本当にこの婚約を受け入れたのか、それとも何か別の意図があるのか……その真意が全く分からない。そこでセドリックはさらに一歩踏み出し、エリスの手に触れようとした。


 しかし、エリスはすぐに手を引き、セドリックの手を制した。


「まだ婚姻関係にありません。触れないでください」


 その声には冷たさと断固とした意志が込められていた。セドリックは一瞬、言葉を失ったが、その言葉に従うしかなかった。エリスの内に秘められた何かが、彼にはまだ理解できなかった。


「エリス……」


 戸惑いを隠せないまま、再び口を開いた。


「では、婚約を正式に発表する準備を進めよう。宰相から聞いているが、皇帝陛下と貴族たちを呼び、この大聖堂で発表することを望むのか?」


 エリスは彼を冷静に見つめた。


「そうです。私たちの婚約は、ただの形式では済まされません。皇帝陛下にお出ましいただき、婚約を公に認めさせる必要があります。さもなければ、この婚約は無意味なものとなるでしょうから」


「無意味?」


 セドリックは眉をひそめる。


「教会の認証はすでに得ている。なぜ、そこまで皇帝の勅にこだわるのか?」


 エリスは一歩も引かず、冷静な声で答えた。


「皇太子殿下、あなたはアルマとの婚約を壊したことを忘れてはなりません。ヴァレンシュタイン家という帝国で最も重要な人々との契約でさえ履行されなかったのです。皇帝陛下を教会の魔法によって拘束するのでなければ、誰もこの婚約に価値を見出すこともないでしょう。あなたは帝国の法を脆弱なものとしたのです。対価は必要でしょう」


 セドリックはその言葉に言い返すことができなかった。なぜなら、その指摘は正しかったからだ。ただの聖女ではない、帝国の未来を見据えた賢者だった。その意見を無視することはできなかった。


「分かりました」


 セドリックは深いため息をつきながら言った。


「陛下には御臨席していただき、正式に婚約を宣言いたしましょう」


 エリスは頷いたが、その顔には何の表情も浮かんでいなかった。その内に秘められた思いは、皇太子には到底掴めなかった。


 セドリックが大聖堂を後にすると、その場に残されたエリスは、しばらく祭壇を見つめていた。瞳には冷静な輝きが宿っていたが、その内には深い決意が渦巻いていた。


 ―――数分後、エリスは祭壇の陰に置いてある通信装置に対して口を開いた。


「ニュン……」


「はい、エリス様。」


 エリスは小さなため息をついてから話した。


「聞いていたかしら?実力部隊はどうなっているのか、報告をちょうだい」


「ヴァレンシュタインの部隊がまだ旧市街に潜伏しています。今なら彼らをかき集めて、聖女様を保護することが可能かと思われます」


 ニュンは「今なら」という部分にわずかな力を込めていた。それは「可能」という言葉の中に確信があったからである。その声には抑えきれない緊張感が漂っていた。


「ただし、騎士団や近衛兵との正面衝突は避けるべきです。彼らとぶつかれば、全面戦闘に発展しかねません。正面での戦闘を担うべき自由都市防衛隊の動向については、最終的には御嬢様の実力にかかっています」


 エリスは微かに微笑んだが、その笑みには冷たさが漂っていた。


「保護は必要ない。事態に備えた計画書はすでに手交したはずでしょう。それと、これから指示する内容を正確に書き起こし、すぐに同志たちに伝達してちょうだい。時間がないの」


 そう言った瞳は異様な輝きを帯びながら充血したかのように赤色の光を放ちはじめていた。


「革命とは、上からの施しではない。民衆自身の手で勝ち取らねばならないものだ。同志アルマ、あなたはその中心にいる。あなたが一歩を踏み出せば、民衆はその歩みに従い、帝国の腐敗した支配層を打ち倒すだろう。革命とは行動だ!待つ者に勝利は訪れない!」


 大聖堂の広間には彼女一人しかいなかったが、その孤独が激情を抑えるどころか、逆に炎を煽るかのようだった。その声は理性を超え、純粋な意志の表現として存在していた。


「聖女である私の名を使うことには何の問題もない。だから、聖女の名であろうと神の意志であろうと、使えるものはすべて使わなければならない。だが、最も重要なのは民衆の力だ!彼らを結集し団結を促さなければならない。そして民衆を動かせば、その波は帝国の中枢を揺るがすだろう。革命は口先の理論ではない。実際に立ち上がった民衆によって、そして自らの未来を切り開く力によって進む!」


 聖人たちのステンドグラスは色彩を変え、ぼんやりとした血の赤い光を帯び始めていた。影が伸び、揺れ、言葉に反応して踊りだす。身体は次第に燃え上がるような熱を帯び、まるで何かに取り憑かれたかのように、その瞳は虚空を見つめ、激しい勢いで言葉を紡ぎ続けた。


「同志に伝えよ。あなたが動けば、民衆は必ずそれに応える。革命は特権階級のものではなく、すべての民衆のものであり、その力は無限だ。立ち上がる時が来た。今こそ行動し、勝利を手にするのだ!」


 ニュンはしばらく沈黙した後、静かに答えた。


「承知しました。アルマ様にはその旨を伝えます。」


「大聖堂を包囲せよ!宮殿を砲撃せよ!」


 最後の一言を吐き出すように叫んでから、エリスは静かに息を整えた。大聖堂は再び静寂に包まれたが、その静寂は既に壊されたものであり、そこにはかつての平穏はなかった。エリスは通信装置を切り、再び静寂に包まれた大聖堂に身を置いた。


 エリスの心は燃えていた。


 信じる未来、新しい秩序に向かって。




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 プロットはもう出来上がっておりまして、なんなら半ば完成品として最後まで一気に仕上げてあるんですが、まあ何と言いますか、公開したものも含め、ぼちぼち手を入れつつ進めているところでして

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