4.再婚約

 玉座の間には、荘厳な静寂が漂っていた。薄い陽の光が高い窓から差し込み、大理石の床に長い影を落としている。広間の壁を飾るのは、戦勝を讃える歴史的な絵画や、過去の皇帝たちの肖像だった。彼らの目は権力者たちを監視しているかのようだ。


 部屋の中央には三人の男がいる。彼らこそ現在の帝国の命運を握る者たちだった。


 その中で最も目立つのは、皇帝ヴィクトールであった。


 年老いたとはいえ、彼の姿はまだ力強く、まるで国そのものを体現しているかのようだった。銀髪の頭を冠で覆い、金糸で刺繍された赤いマントを身に纏っていた。その目には、長年の統治と戦いで磨かれた冷徹さが宿っていた。


 その傍らに立つのは、彼の息子であり皇太子であるセドリック。


 彼は父とは対照的に、若々しいエネルギーに満ちていたが、その顔には何かしらの迷いが浮かんでいた。彼の姿勢には表面上の自信が感じられるが、その奥には不安が隠されていた。彼が抱えている感情は、皇太子としての単なる義務を超えていた。


 そして、もう一人は宰相アレクサンダー・パルミエ。


 彼は長年にわたり、帝国の政治を裏で操ってきた保守派の実力者であり、彼の冷静な知性と無慈悲な判断力は、彼を恐れさせる存在にしていた。彼は皇帝にとって不可欠な存在だったが、その本心を知る者はいなかった。


 この三人が他者のいない場で一堂に会することは、それ自体が異例であり、何か重大な決断が秘密裏に下されようとしていることは明白だった。ヴィクトールは沈黙を破ることなく、重々しく玉座に座っていた。彼の前には台風の襲来を予期するような緊張が漂っている。


 ついに、ヴィクトールが静かに口を開いた。その声は、大時計の音のように落ち着いていたが、その裏には力強い決意が感じられた。


「セディよ……」


 皇帝はあえて息子の愛称を口にし、その言葉は広間の冷たい空気に溶け込んで、重い霧のようにセドリックを包んでいく。


「一昨日のパーティーでの件、すでに耳に入っている。お前の勝手な行動については既に耳に入っているが、それについて何か弁明はあるのか?」


 セドリックは少しうつむき、目の前の石床を見つめた。彼の心には迷いがあった。しかし父の厳しい視線にさらされると、言い訳をすることは許されないと迷いを消し飛ばした。深呼吸をし、静かに父を見つめ返して答えた。


「申し訳ありません、父上。しかし、私はエリスとの真実の愛に目覚めたのです」


 その言葉が口から出た瞬間、広間の空気は凍りついたかのように感じられた。セドリックの声には誠実さが込められていたが、それは皇帝が理解できるものではなかった。その顔には、わずかな苛立ちが現れ、その鋭い目が息子を睨んでいた。


「真実の愛、だと?」


 ヴィクトールの声は低く、冷ややかな響きを帯びていた。それは、長年にわたり帝国を支配してきた皇帝が、感情ではなく理性で判断する者であることを如実に表していた。


「その聖女こそが、お前は間違っていると指摘していたのではないか?それが真実の愛などと……」


 皇帝は少し言葉を切ってから、深い息をついてから続けた。


「セディ、感情に流されてはならん。この帝国は感傷により統治できるものではない」


 セドリックは口を開こうとしたが言葉を飲み込んだ。父の言葉には真実があった。それでも彼の心にはエリスへの強い想いが根付いていた。彼女はただの聖女ではなく、彼にとって特別な存在だったのだ。


 その時、宰相アレクサンダーが静かに場を取りなそうと前に出た。彼の声は冷静で、まるで全ての状況を掌握しているかのような口調だった。


「陛下。私もセドリック殿下の心情は理解を致しかねます。しかし、この問題は感情的なものではなく、戦略的に捉えるべきです」


 彼の言葉は、まるで油絵の中に描かれた風景が動き出したかのように、広間の緊張を和らげる力を持っていた。彼は皇帝の目をじっと見つめ、その一方でセドリックにも視線を送った。


「私たちはまず、第二皇子テオバルト殿下の立場を考える必要があります。婚約破棄が成立してしまった今、ヴァレンシュタイン家にいるテオバルト殿下は極めて不安定な状況に置かれているでしょう。あの家の動向を注視しなければなりません」


 皇帝ヴィクトールは眉をひそめ、しばし黙考した。彼の顔には苦悩の影がよぎったが、それはすぐに消えてしまい、冷静な判断力が彼の意識を支配していた。


「アレクサンダー、ヴァレンシュタインの小娘の身柄は確保しているのだろうな?」


 ヴィクトールは鋭い声で問いかけた。


 アレクサンダーは一瞬のためらいを見せたが、すぐに冷静さを取り戻し、淡々と答えた。


「陛下、申し訳ありません。突然の事態で騎士団の対応が遅れ、彼女は逃亡を許すこととなりました。しかし現在は追跡中です。エリューシオンを離れたという兆候はありません。未だ市内に潜伏しているものかと」


 この報告に、ヴィクトールは深い溜息をついた。彼は長い指でこめかみを揉みながら、困難な状況を打破するための手立てを考えていた。


「厄介なことだ……」


 ヴィクトールは静かに呟いた。


「ヴァレンシュタインの小娘を逃がしたことで、テオの立場はますます危うくなる。我々がこれまで築いてきた国が崩れるかもしれない」


 皇帝の計画は緻密に練られたものだった。第二皇子テオバルトをヴァレンシュタイン家の養子とし、彼に家督を相続させることで、その強大な貴族家を皇室の掌中に収める狙いがあった。アルマとの婚約はその交換条件であり、彼女を通じてヴァレンシュタイン家の影響力を皇室に組み込もうとする計画は、長い時間をかけて進行していたのである。


 しかし、セドリックが婚約を一方的に破棄し、アルマが逃亡した現在、その計画は予期せぬ事態に直面している。テオバルトがヴァレンシュタイン家の家督を相続できなければ、その一族は独立し、帝国の支配を揺るがしかねない存在となるだろう。皇室は何としてもアルマを再び手中に収め、テオバルトの家督相続を確実にしなければならないし、最悪の場合でもテオバルトの身柄は取り返さなければならない。次の一手が帝国の命運を左右する。


 アレクサンダーは一歩前に出て、冷静な口調で続けた。


「陛下、無論アルマ嬢を取り戻すことも重要ですが、今となっては、セドリック殿下と聖女様との婚約を急ぐべきかと存じます。この結びつきにより、教会の強固な支持を得て、皇室の権威を回復できるでしょう。それこそが、ヴァレンシュタイン家に対する最も効果的な牽制となるかと存じます」


 ヴィクトールは息を吐き、深い思案に沈んでいた。時折、窓の外から差し込む光が彼の顔を照らし、彼の老いた表情に一層の陰影を与えていた。彼の統治にとって、セドリックの感情や行動は今や重要な要素となっていたが、同時に最も制御が難しいものであった。


 セドリックは父の沈黙の中にある期待と苛立ちを感じ取り、胸の中で葛藤していた。彼の目の前には、エリスとの婚約による解決の道が広がっている。だが、それは単なる政治的な決断ではなく、彼にとっては愛と責任を背負う重大な選択であった。彼の心は、帝国の将来を守るという使命感と、エリスへの強い想いとの間で揺れ動いていた。


「一週間以内に婚約を成立させろ」


 ヴィクトールはようやく言葉を発し、息子に鋭い目を向けた。


「時間が我々の敵となる前に、動かねばならん」


 セドリックは決意を固め、静かに頷いた。


「父上、私はエリスとの婚約を一週間以内に成立させます」


 アレクサンダーはそのやり取りを見守りながら、冷静に次の手を考えていた。彼の頭の中では、すでに教会との交渉が進んでおり、エリスとの婚約が成り立つことで、彼らの計画が破綻から救済されることを確信していた。しかし、彼にはまだ不安が残っていた。パーティーでの事件があった今、エリスは単なる駒ではなく、強い意志を持つ人物であるとしか考えられないのだ。その意志が皇室に従うかどうかは、未知数であった。


「殿下。聖女様を説得する手段についてはよく考えておくべきです」


 アレクサンダーは慎重に言葉を選びながらセドリックに向き合った。


「彼女の信念と聖女としての使命に寄り添う言葉が必要です。まず、彼女が教会と皇室の架け橋となり、帝国の安定に貢献する存在であることを伝えてください。そして、婚約によって彼女の力がより広く活かされ、民衆に幸福をもたらすことができると強調するのです。無理に迫るのではなく、その意義を理解し、自ら婚約を選ぶよう導いてください。殿下が彼女と共に未来を築く意思を示せば、彼女も必ず応じるでしょう」


 セドリックはアレクサンダーの助言に耳を傾け、心の中でその言葉を反芻した。エリスとの関係を深めるためには、ただの皇太子としてではなく、彼女の心に触れる存在として接する必要がある。セドリックは、その決意を胸に、エリスとの面会に向けて準備を進めていた。


 宮殿の外に出ると、冷たい風が再び彼の顔に吹き付けた。その風は、彼がこれから直面する試練の象徴のように感じられた。彼の足取りは速く、決して躊躇うことなくエリスの元へ向かっていた。彼の胸の中には、彼女との結びつきによって帝国を守り、父の信頼を取り戻すという強い意志が渦巻いていた。


 エリスとの面会は、彼にとって単なる政治的な取引ではなく、愛と信頼を築くための重要な瞬間であった。彼は、彼女の内に秘められた強さと純粋さに引き寄せられていることを自覚していた。しかし、彼女の心が自分に完全に開かれるかどうかは、未だに分からない。


 セドリックがエリスとの面会の準備を進めている一方で、アレクサンダーもまた、着実に婚約に向けた計画を進めていた。彼の冷静な判断と策略により、教会との交渉が整えられ、エリスが婚約を受け入れるための環境が整っていった。彼はすべてを見据え、皇室と教会の間に固い結びつきを築くための手を次々に打っていた。


「婚約が成立すれば、教会の確固たる支配が実現する」


 アレクサンダーは自らに言い聞かせるように呟いた。


「そしてヴァレンシュタイン家の影響力も、その時には完全に消滅するはずだ」


 宮殿の中では、次第に準備が整い始めていた。ヴィクトール、セドリック、アレクサンダーの三人はそれぞれが己の役割を果たし、帝国の未来を守るための婚約を成立させようと動いていた。この婚約が成功すれば、帝国は再び安定を取り戻し、長年にわたる不安定な状況を終わらせることができるだろう。


 だが、この婚約は単なる政治的な結びつきではなかった。それは、セドリックとエリスの心の結びつきに深く依存していた。彼ら二人の関係がどのように発展し、帝国の未来に影響を与えるのか?


 それはまだ未知数であり、すべてはこれから始まる一週間の中で決まるのだった。









――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


さて、お待たせしました。ここからが物語の山場、舞台の幕が上がる瞬間とでも言いましょうか。前置きが少々長くなったのはご容赦を。


加えて、実は百合をテーマにした短編も手掛けまして、私が軽いノリで書いたにしては上出来じゃないかと謎の自負をしております。何はともあれ、楽しんでいただければこれ幸い。


どうぞ、ご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る