3.冷風の向こう

 教会の鐘の音が低く響くたびに、外の冷たい風は一層強まるようだ。二人の会話の間に静寂が広がるその瞬間、エリスは目を細め、マリナの表情の変化をじっと見つめた。彼女の微笑みはどこか固定されているようで、柔らかさの裏に何かが隠されている。だが、その正体はまだ明確ではなかった。


 エリスは椅子に座り直しながら軽くカップを持ち上げた。紅茶の香りがほのかに漂い、冷えた教会の空気を一瞬だけ和らげる。だが、口に含んだその紅茶の味は、甘みと苦みが曖昧に混じり合い、すべてがぼんやりとした輪郭を持ち、確かなものが何一つ掴めない感覚。そのはっきりとしない印象は、今の自分が置かれている状況のようだ。


「マリナのお父様は辺境開発政策高等調整官……だったわよね?改革派でしょう?元気でやっているの?」


 エリスはアルマのメモを思い出しながら、あえて軽い話題を持ち出した。紅茶の温度がわずかに冷め始めたカップをテーブルに戻しながら、再び視線をマリナに向けた。


 マリナは一瞬考え込むように目を伏せたが、すぐに顔を上げ、にこりと微笑んだ。


「ええ、父は理想を持って進めているわ。でも、理想だけでは現実を変えるのは難しいこともわかっているの。多くの抵抗に直面しているわ」


 その言葉に、エリスは軽く頷いた。抵抗とはこの帝国の支配階級に根差した頑強なものだ。改革派であれ保守派であれ、自らの利益が脅かされる時、彼らはその牙を剥く。エリスはかつて工作員として、そのような場面を何度も目撃してきた。権力を巡る闘争において、表面的な和やかさの裏に潜むもの、それこそが本当の力なのだ。


「でも、私たちは進まなければならない。どれだけ困難であっても、前に進むことが重要なのよ」


 マリナは自信に満ちた口調でそう言ったが、その声にはわずかな揺らぎがあった。彼女自身、どこまでその信念に確信を持っているのか、エリスには疑わしかった。


「あなたは本当に強いのね。でも、時には少し休むことも必要だわ。無理をすれば、あなた自身が傷ついてしまうかもしれない」


 エリスの言葉に、マリナはしばらく黙っていた。彼女の目は再び伏せられ、長いまつげが静かに震えていた。エリスはその小さな動きにも注目していた。彼女の心の奥底には何かが潜んでいる。それは単なる改革の理想だけではない、もっと深い、もっと複雑な感情が。


「あなたがそう言うと、少し安心するわ」


 マリナはようやく口を開いた。


「でも、エリス、あなたも気をつけて。聖女としての役割は決して楽ではないはず。あなたには大きな責任がのしかかっている」


 エリスはその脅迫ともとれなくない言葉に軽く微笑み、カップに残った紅茶を一口だけ口に含んだ。彼女の背筋に冷たい風が吹き抜け、わずかに震えが走ったが、それを気にせずに再びカップをテーブルに置いた。「聖女」とは彼女にとって単なる役割に過ぎない。神聖視されるその地位は、彼女自身にとって何の意味も持たない。だが、その役割を利用することで、彼女は帝国の支配構造に揺さぶりをかけることができるのだ。


「私は大丈夫よ、ありがとう。あなたが私を信じてくれるなら、それで十分だわ」


 エリスの言葉には、あくまで表面的な礼儀が含まれていて、心の中では別の思考が巡っていた。


 マリナは再び軽く微笑んだが、その笑顔の奥にある感情をエリスは見逃さなかった。瞳に何かを隠そうとする微妙な緊張が感じられた。エリスはそれに気づきながらも、あえて追及しようとはしなかった。


 この瞬間、マリナとの間に築かれている微妙なバランスを崩すべきではない。彼女の内面に潜むものを引き出すためには、もっと時間が必要だろう。それがエリスの見立てであった。


 外の風が再び強くなり、窓ガラスがかすかに揺れた。その音が二人の間に一瞬の沈黙をもたらした。エリスは、マリナがこの静寂にどのように反応するのかを見守っていた。だが、マリナはただ静かに息を吐き、カップを軽く持ち上げて紅茶を飲み干した。


「今日はこれでお開きにしましょうか?」


 マリナがやがて口を開いた。彼女の声には、微かな疲れが混じっていた。エリスはその言葉を聞き、すぐに同意した。


「ええ、また近いうちにお会いしましょう」


 二人は席を立ち、互いに軽く頭を下げ合った。


 外の寒気が再び教会の中に入り込み、彼女たちの間に冷たい空気が流れた。マリナの姿が教会の門を抜けて消え去るとき、エリスはその背中をじっと見つめていた。


 エリスの心には、マリナに対する小さくない疑念が残されたままだった。彼女はまだ、マリナの真意を完全には掴んでいない。だが、それで良いのだろう。すべてが明らかになる時を焦る必要はない。今はただ、この小さな探り合いの中で、互いの本性を少しずつ浮き彫りにしていけばいい。エリスはゆっくりと教会の石畳を歩きながら、次の一手を考え始めた。


 冬の空は鈍い灰色で覆われ、風が激しさを増す。エリスの背後に、教会の鐘の音が再び低く響いた。彼女は、外に広がる寒々しい世界を見据えながら、次に訪れる波乱に向けて心の準備を整え始めていた。

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