6.信任を得る

 ―――ニュン・ヴァン・フイがヴァレンシュタイン家に仕えるようになったのは、帝国北方での十週間に及ぶ攻勢が幕を閉じた直後のことである。


 攻勢の終結後に戦場となったのは、帝国と共和国の間に位置するマハリカ・ランガナ藩国を流れるリンヤン川だった。


 川幅はそれほど広くないが、両軍の膠着状態を象徴するには十分だった。敵前での渡渉はひどくブラッディな戦術であり、兵士たちに重い出血を強いることは両軍にとって不可能だった。ニュンはその川岸でいくらかの散発的な戦闘を終えた後、貴族の率いる軍に自分たちの掘った塹壕を譲る形でエリューシオンへと帰還した。


 一方でエリューシオンに滞在していたヴァレンシュタイン家の当主、マティアス・ヴァレンシュタインは、貴族らしからぬ親しみやすさで知られていた。


 彼は市民軍の兵士たちが帰還するたびに彼らを酒場に集め、戦場での出来事を聞き出していた。彼の関心は、単に戦場の武勇伝を楽しむことにはない。マティアスは常に新しい戦術や兵器、戦争の中での技術的進歩に目を光らせていたのだ。


 帝国の西端に位置するヴァレンシュタイン家の領地はダルカンディア連邦と接しており、その国境では絶え間なく小競り合いが続いている。そこで用いられる戦術や兵器は、北の戦場でのものとは異なっていて、未だ中世的な色彩を漂わせていた。市民軍が導入した新しい兵器の噂を聞くと現物に触れたがり、「オルガン」と呼ばれるエルフの砲撃魔法や、その対抗戦術としての塹壕の構築手法について書き留める様子は、ただの好奇心からではなかったのである。


 そんなマティアスにとって、ニュンは単なる有能な戦士以上の存在だった。ランガナ義勇兵連隊は、ニュンが集めた在エリューシオンの難民エルフを中心とし、特に勇敢な部隊として市民軍の中では知られていた。連隊は、エーテルランスという新兵器を用い、共和国軍の防衛線を打ち破る活躍を見せていた。その功績がマティアスの耳に届いたとき、彼はニュンをヴァレンシュタイン家に迎え入れるべきだと直感した。


 彼の持つ知識や経験は、ヴァレンシュタイン家の領地を守る上で極めて有用だった。


 しかし、それだけではなかった。マティアスはニュンが市民軍に対して持つ影響力にも期待していた。市民軍は帝国の正式な軍貴族軍とは異なり、混成部隊であり、異なる背景や文化を持つ者たちが集まっていた。その中でニュンは、エルフという出自にもかかわらず、人望を集めていた。彼には、戦場での指揮官としての能力だけではなく、人々を団結させる力があった。


 ―――ヴァレンシュタイン家の書斎は、静寂の中に威厳を感じさせる場所だった。ニュンが部屋に足を踏み入れると、落ち着いた重厚感が彼を迎えた。


 マティアスは暖炉の前で椅子に座っており、彼が入ってくると立ち上がって握手を求めてから向かいの席を勧め、同時に穏やかな微笑を浮かべた。


「ようこそ、ニュン。君と話ができて光栄だ。ランガナ連隊での君の働きは誰もが認めている。君はこのエリューシオンを守った英雄だ」


 確かに彼の名前は市民軍の間で語り草となり、特に新市街では英雄として尊敬される存在となっていた。しかし、ニュンはエルフであったがゆえに、帝国から正式な勲章や称賛を受けることはなかった。ニュンが勲章など必要としていないのは置いておくとして―――


 しかし、大貴族であるマティアスがニュンを「英雄」と呼んで握手を求めることの意味、それが小さくないことには気付いていた。そもそも平民たちと会話したがる貴族というのが、少し変な奴だと、ニュンは思っていた。


「ありがとうございます、マティアス様。私は兵士として出来ることをしただけです」


 マティアスはニュンの目をじっと見つめて言葉を続けた。


「その謙虚さが良い。君は特別な能力のある存在なのだろう」


 少し言葉を切ってから、マティアスは話を変えた。


「ところで実は、今日君を呼んだのは、単に感謝の意を伝えるためだけではない。君に提案がある」


 ニュンは少し身を乗り出した。マティアスが何かを提案してくるということは、何か大きな決断を求められているのだろうと予測した。


「提案……といいますと?」


 マティアスは軽く笑いながら続けた。


「君には、このエリューシオンの我が屋敷で家令のように働いてほしいのだ。君の知識と経験は、この街と我が領地をより強固なものにするために役立つと考えている。特に、君が市民軍で培った人望、それに戦術の知識は、これから非常に貴重となってくるはずだ」


 ニュンは驚いたように目を見開いた。彼は戦士としての道を歩んできた。大貴族の家令としての役割など果たせるのかどうか、少し戸惑いを覚えた。それに市民軍での誇り高い立場から離れることになるのではないかという不安もあった。


「マティアス様、私はこれまで戦場に立つことが仕事で、貴族のしきたりや流儀など何も知りません。家令という役割が、私に務まるでしょうか?」


 マティアスは、ゆっくりと首を振った。


「ニュン、私は君に家事をやれと言っているわけではない。一ヶ月前に生まれた娘がここに住むことになるんだ。君は私の目となり耳となり、娘を補佐してほしいのだ。それに、君はただの戦士ではない。君がランガナ連隊を率いたことが証拠だ。君は戦士であると同時に、指導者であり戦術家だ。君の意見は大いに役立つだろう。家令という役割は、単なる補佐ではなく、私の領地とエリューシオンの街を守るための最前線に立つことでもある」


 ニュンはしばらく黙っていた。彼の中で、市民への忠誠心と、新たな役割を果たすことへの期待が交錯していた。


 市民軍は、エリューシオンの市民が自らの力でこの地を守ろうと立ち上がった結果であり、彼にとっては誇りそのものだった。その誇りを持ち続けたまま、貴族の使用人として働くことが可能なのか―――それが彼の心の中での最大の疑問だった。


「私は……まだ連隊の一員として戦いたいという気持ちがあります」


 ニュンは慎重に答えた。


 マティアスは微笑みを浮かべた。


「君が兵士として得た誇りを捨てる必要はない。むしろ、その誇りを持ったまま新たな役割を果たしてほしい。家令としての仕事は、戦場での指導と同じく、重要な任務だ。君の知識と経験が、この街をさらに強くしてくれると確信している」


 ニュンはその言葉に納得し、ゆっくりと頷いた。自分の中で何かが解けた気がした。市民軍の誇りを保ちながら、エリューシオンに仕えることができる―――それは彼にとって、まさに新しい挑戦となるだろう。


「分かりました、マティアス様。ヴァレンシュタイン家の家令として全力を尽くします。そして、エリューシオン市民としての精神を忘れずに、これからも戦い続けます」


 ニュンは力強く答えてから再び頭を下げた。彼の心には、これまでの戦いとは異なる新たな使命感が芽生えた。それは、市民軍の誇りを保ちながら、エリューシオンの未来を築くための新しい道だった。


 マティアスは満足そうに頷き、暖炉の火を見つめながら、静かに言った。


「その言葉を聞いて安心したよ、ニュン。共に、我が領地やこの街をさらに強くしていこう……ところで……」


 この大貴族の当主には大きな欠陥があった。


「我が娘の代理人となる以上、立派な肩書が必要だろう。そうだな……帝室親任高等公使および領主委任全権顧問官……どうかね?」


 ニュンは苦笑していた。マティアス・ヴァレンシュタインは長ったらしい役職名を愛しており、そのためには皇帝を動かすことも厭わなかったのである。


「皇帝に親任式を開かせようじゃないか!」

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