5.用意された逃亡劇

 エリスはセリーナの昔話を聞きながら、考えを巡らせていた。元義勇兵のニュン・ヴァン・フイという人物は、彼女の注意を引いた。


「それで、ニュン・ヴァン・フイという人物が協力者の候補ということかしら?」


「その通りです、エリス様」


 工作員としての直感が、彼の存在に何かしらの危険と、同時に興味を感じさせる。だいたいの場合、義勇兵という者の人物像は無秩序な暴力の象徴である。だが、一方で、うまく操ることのできる人物ならば、非常に頼もしい存在になりえた。彼らは何かを破壊するためにいるが、破壊の中から新たな秩序を作り上げることもできる。


「ニュン・ヴァン・フイ、本当に信頼できるのかしら?」


 エリスは口調を抑えながらも、鋭くセリーナに問いかけた。経験から、表面的な信頼は簡単に覆されることをよく知っていた。


 セリーナは一瞬の迷いもなく答えた。


「はい。彼とは二十年以上の付き合いですが、有能で信頼に足る人物であることを疑ったことはありません」


 エリスは頷きながらも、心の中ではまだ疑念を捨てきれなかった。工作員として送ってきた人生は、信頼というものが一度でも崩れると命が危うくなるという場面の連続だった。今、この瞬間も例外ではない。


 その時、アルマがふと思い出したように言った。


「ニュン・ヴァン・フイって、乙女ゲームの外交パートに登場したわ。でも、彼がどんな人物なのか、ゲームの中ではあまり描かれていなかったのよ」


 エリスはその言葉に耳を傾けていた。だが、ゲームと現実は、しばしば一致しない。なにせ自分がその典型だろう。だから、ニュンが何者であるかは、どうにせよ直接確認しなければならない。エリスは迷ったら直感に従うことにしていた。


「それなら、直接会ってみるしかないわね」


 任務に挑むときと同じような温度でエリスは提案し、アルマとセリーナも首を縦に振って、その意見に同意していることを示した。


 アルマは、セリーナに尋ねる。


「で、そのニュンさんは今、どこにいるの?」


 セリーナはすぐに答えた。


「ニュン・ヴァン・フイは『帝室親任高等公使および領主委任全権顧問官』として、この屋敷に駐在しています」


 それを聞いたアルマの表情には「長ったらしい役職名だこと」という文字が書いてあった。


「お呼びしましょうか?」


 セリーナが提案したが、アルマは首を横に振った。


「ニュンさんがどんな人間なのか確かめるのなら、こちらから出向いた方がいいでしょう」


 そうして三人はすぐにニュンがいるという、屋敷の中にある彼の作業部屋へと向かった。


 ―――ニュン・ヴァン・フイは、戦場の風をそのまままとったような浅黒い肌を持つ中年のエルフである。その肌は、太陽の下での長い年月を物語り、肩幅が広く、無駄のない筋肉が彼の軍人としての過去を暗示していた。長身でありながらも、どこか柔和さを漂わせるその姿は、一見すると威圧的ではない。だが、内に秘めた強さが垣間見える。彼の存在が振り撒く安心感には、深い経験の影が見え隠れした。


 彼は暖炉の前で黙々と書類を燃やしていた。燃え上がる炎が書類を呑み込み、灰となって崩れていく。ニュンは無言で作業を続け、その表情には緊張感が漂っていた。彼の行動には一切の迷いがなく、何か確固たる決意を持っていることが伺えた。


「ニュンさん……ですよね?一体それは……何をしているのですか?」


 アルマが不安げに尋ねた。彼女は思わず声を掛けたが、その言葉には困惑が滲んでいた。


 ニュンは、書類を燃やす手を一瞬止めて振り返り、落ち着いた声で答えた。


「ああ、御嬢様ですか。機密書類を破棄しております。騎士団と近衛兵が動き出している兆候があり、この情報が敵の手に渡るわけにはいきませんので」


 その言葉を聞いたエリスは、内心の緊張を強めながら対応を考えていた。情報の価値を知り尽くしている彼女にとって、ニュンの行動は決して軽視できるものではなかった。


 エリスはニュンに一歩近づき、厳しい口調で問いかけた。


「ねえ顧問官、それはつまり……アルマに危険が迫っているということかしら?」


 ニュンは短く頷き、再び冷静に答えた。


「はい。婚約破棄の件については既に広まっており、ここに長く留まることは非常に危険であると判断しています。とはいえ、聖女様は教会に戻れば安全であると考えます。御嬢様には早急に退去して頂くことをお勧めいたします。この作業が終われば迎えに上がる予定でした。新市街にセーフハウスを用意しております。屋敷よりは安全でしょう……それでも、安全は保証いたしかねますが……」


 その時、セリーナが静かに口を開いた。


「アルマ様、エリス様、ニュンの言う通りです。ここに留まり続けることはリスクが高すぎます。避難すべきかと存じます」


 アルマは少し考え込むように眉をひそめた。


「待って、ゲームの中では私が逃亡するシナリオなんてなかったはず……」


 彼女はさらに思案を巡らせながら言葉を続ける。


「ゲーム中のアルマは逃亡することを良しとしなかった、だから処刑されたということかしら……でも、よく考えれば、処刑エンドでも私が処刑されるシーンは描かれていなかった。だから、結末が暗示されていただけで、実際に何が起こったかは明確ではないのかもしれない……本当に避難すべきなのかしら……」


 ニュンとセリーナは、アルマの言う「ゲーム」の話が理解できず、ただ彼女の言葉を慎重に受け止めた。


 セリーナは少し戸惑いながらも答えた。


「アルマ様、おっしゃることは難解ですが、今は現実の危機に目を向けるべきです。行動を起こすことが、最善の策かと存じます」


 エリスはアルマに目を向けると、少し勢いをつけて身振り手振りを交えながらアジテーターのように話した。


「同志、今こそ決起のために地下へ潜航するのよ。我々が団結し、自らの手で歴史の歯車を動かし、新たな時代を築くため、ここは反動から身を隠すべきなのよ。運命はもはやアルマ個人のものではないの。我々が階級全体の意志として前進するべき時が来たの!」


 セリーナも再び口を開き、スローガンの羅列のようになっているエリスの言葉を尊重した。


「エリス様のおっしゃる通りであると考えます」


 ニュンは黙って彼女たちの会話を聞きながら、手に持った書類を無言で暖炉に投げ込み続けていた。彼の目はどこか遠くを見つめており、積極的に意見を述べようとはしなかった。


 確かに、彼は「全権」を持つ立場にあり、ヴァレンシュタイン家の代理人としてアルマの摂政のように振る舞うこともあった。しかし、アルマが学院を卒業し、成人して婚約破棄を受け、ヴァレンシュタイン家に留まることが決まった今、彼が領主の代理人としての役割を果たす必要はもはやなかった。


 エリューシオンにおいてヴァレンシュタイン家を象徴する者がいる以上、彼の職務は顧問官として、諮問に答えるだけのものに変わりつつあった。ニュンはそれを冷静に理解し、自らの立場に徹していた。


 彼は一瞬セリーナに目を向け、短く言葉を交わした。だが、その小さな会話はエリスやアルマには届かず、二人の耳には無音のように消えていった。


 そして再び、彼らはアルマの決断を待ちながら、静寂の中で見守っていた。

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