4.エルフの友

 ―――魔術省を辞職後、セリーナは完全無欠の無職の状態に突入したが、その後もバッドイベントは雨のようにように次々と降りかかってきた。ルーシーたちの執拗な嫌がらせは、魔術省を去った後もなお留まることを知らなかったのである。


 その結果として、セリーナの実家の毛織物商は見事に破綻してしまった。家族はこの困難から逃れようと、あれこれ手を尽くして他国に移り住み、一家はあっという間に離散の憂き目に遭ってしまった。


 セリーナはその後、過去の栄光と失われた家族、そしてどうにも不透明な未来について深く悩み始めた。彼女の心は重たい荷物を背負っているようで、希望の光などどこにも見つからなかった。唯一の頼りとなったのは酒だった。その関係はまるで親しい友人とでも言うかのように、彼女の日常にしっかりと組み込まれていた。


 ある晴れた午後、セリーナがいつものように酒場のカウンターに腰掛け、なじみの瓶とにらめっこをしていた。扉のベルがちりんと鳴って振り向くと、見覚えのあるエルフの若者、ニュン・ヴァン・フイが現れた。少し前まで義勇兵だった彼は、新市街で何かと顔の広い存在だったのだが、このところはヴァレンシュタイン家に出入りしているようだった。


「セリーナ!」


 ニュンは快活に声をかけながら、軽やかなステップで彼女に近づいてきた。


「またジンと親密な関係を築いているようだね。ジンと君はまるで昔からの友人みたいだ」


 セリーナはグラスをくるくると回しながら、軽く肩をすくめて苦笑した。


「ニュン・ヴァン・フイ、そんな調子のいいこと言って、また何か企んでいるのかしら?まさか、ここで会うとは思わなかったわ」


 ニュンはにやりと笑いながら、彼女の隣に腰を下ろした。


「いやいや、僕がここにいるのはただの偶然さ。それに、君の気分を少しでも明るくできるなら、本望というものだろう?」


 セリーナは短く笑いながら、またもグラスに目をやった。


「明るく、ね。簡単にできたらいいんだけど、それがなかなか難しいのよ」


「それは君の思い込みだよ、セリーナ」


 ニュンは目を輝かせて続ける。


「そろそろ、この薄暗い酒場の生活から一歩踏み出してみたらどうだい?外にはまだまだ面白いことが山ほどあるんだ」


「もしそれができれば、ここにいないわよ」


 と、セリーナは肩を落とし、ため息交じりに答えた。


 ニュンは肩をすくめると、軽く指を鳴らして酒場のマスターにハーブ入りのミードを注文した。


「まあ、それはそれとして、今夜は君を少しでも楽しませることに全力を尽くそうじゃあないか。さあ、どこから話そうか。そうだ、最近のエリューシオンの噂話からでも、どう?」


 彼の軽妙な口調と、次々に繰り出されるおかしな話題に、セリーナも次第に心を開いていった。ニュンの陽気さは、まるで曇り空を吹き飛ばすかのように彼女の心に光を差し込んで、いつの間にかその笑顔は本物のものに変わっていた。


「ありがとう、フイ。こんな風に話していると、少しずつ前に進める気がするわ」


 ニュンは得意げに笑って言った。


「それでこそセリーナだ。さて、次は何を話そうかな?新たな冒険に乗り出す計画でも立ててみるかい?」


 実のところニュンは、セリーナに仕事を勧めるつもりで来たが、どうにもその内容を伝えるのに気が引けた。彼女が魔法技術者として優れた経歴を持ち、今や酒場で酒瓶と友好を深めている現状を考えると、引け目を感じない方が難しかった。


 ニュンは慎重に言葉を選びながら口を開いた。


「君にヴァレンシュタインでの仕事を勧めたいと思っているんだけど……」


 セリーナはグラスを片手に、興味なさそうにニュンを見た。


「ふーん、それで?どんな仕事よ?」


 ニュンは軽く咳払いをしてから続けた。


「ええと……まあ、君が考えているような技術的な仕事ではないんだ。それが、ちょっと特殊で……実は、赤ん坊の世話なんだ」


「赤ん坊?」


 セリーナは驚いて眉を上げ、ニュンを見つめた。


「私が?冗談でしょう?」


「いや、本当に頼むよ」


 ニュンは少し申し訳なさそうに微笑んだ。


「その赤ん坊は、ただの子どもじゃないんだ。彼女は未来の皇太子妃なんだ。だから、極めて重要な存在で、信頼できる人間に世話を任せる必要がある」


 セリーナは一瞬言葉を失い、考え込んだ後、ため息をついた。


「待って、それって、つまり私が政治的な駒の世話をするってこと?」


「そういうことになるな」


 ニュンは肩をすくめ、気まずそうに答えた。


「ヴァレンシュタイン家にとっても、帝国にとっても、機微のある問題だ。だからこそ、君のように信頼できる人が必要なんだ」


 セリーナは眉をひそめ、グラスを机に置いた。


「それで、私はその赤ん坊をどうやって守ればいいの?私は戦士じゃないわよ。赤ん坊の世話もまともにやったことがないのに」


 ニュンは頷き、彼女の不安を理解しつつも、続けた。


「君に求められているのは、彼女を安全に、そして安定した環境で育てることだ。君が感じている不安もわかる。でも、これは君にとっても新しいスタートなんだ。何かを守るという意味では、君が最適なんじゃないかと思うんだ」


 セリーナは困惑した表情を浮かべながらも、しばらく考え込んでいた。


 ヴァレンシュタイン家から帝国に差し出された人質――それも、未来の皇太子妃となる赤ん坊の世話。そんな重大な役割を自分が果たせるのか、正直なところ全く自信がなかった。


「フイ……わかったわ。でも、どうして私なの?なぜ、そんな大役を私に?」


 セリーナは静かに尋ねた。


 ニュンは真剣な表情で彼女を見つめて言う。


「君だからこそだよ。君は常に冷静で、信頼できる。それに、君が何をしても、子どもに優しい影響を与える力があると信じてるんだ。それは、君が魔法技術者としての過去を持っていること以上に重要なんだ」


 セリーナはため息をつき、再びグラスに手を伸ばしたが、すぐに思い直して手を引いた。


「ふむ……まあ、仕事もないし、やるしかないってことね。少し不安だけど、今の私には他に選択肢もないし、赤ん坊の世話くらいなら何とかなるかもしれないわ」


 ニュンは笑顔で頷く。


「その通りさ。君ならきっとやれる。僕が保証するよ。少しずつ君が昔の力を取り戻す姿を、僕は信じているからね」


 セリーナは短く笑う。


「まさか、乳児の世話で復活を目指すことになるとは思っていなかったわ。でも、ありがとう、フイ。少し気が楽になった」


「その調子だ、セリーナ。君は思っている以上に強いんだよ」


 ニュンは自信満々に言った。


 こうして、セリーナは新たな役割を引き受けることを決意した。彼女がかつての魔法技術者としての栄光を取り戻す日はまだ遠いかもしれないが、この赤ん坊を守ることで、再び自分の道を見つけることができるかもしれない。いや、20年後にその日がやってくるのだが―――

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