3.乙女の予言

 セリーナは広間を見回しながら、声を少し低くした。


「ここでは、誰かが耳を傾けているかもしれません」


 柔らかな笑顔を浮かべながらも、どこか慎重な様子で言った。エリスとアルマは思わず顔を見合わせ、セリーナは軽く肩をすくめる。


「今のところ盗聴の可能性はないでしょう、心配は無用です。いい場所を知っていますから移りましょう」


 そう言って、廊下の奥へと二人を導き、扉の前で振り返った。


「この部屋には防諜用の魔法装置が配備されています。本家の人間だとしても、聞くことはできないでしょう」


 自らが装置を設計したのだろうか、少し自慢げな表情を見せながら扉を開けた。部屋の中の小さなテーブルに、彼女は再び柔らかい笑みを浮かべながら私たちを座らせた。


 窓越しに覗く空は、薄い紫色から群青へとゆっくりと変わっていき、遠くにはかすかな星が一つ二つ輝き出している。


 テーブルの上には、淹れられてからしばらく経った紅茶のポットが置かれており、もう湯気は立たず、香りだけがかすかに残っていた。


 セリーナは冷めた紅茶を一口含み、顔をしかめながらカップを静かに戻した。


 エリスは特に気にする様子もなく、冷めて溶けなくなってしまった砂糖が沈んでいる紅茶を、無造作に一口で飲んだ。温度も味も全く気にせず、ただ何となく口に運んでいるだけのようだった。飲み終えると、彼女はカップを静かにテーブルに戻した。


 アルマはカップを手に取りながら、窓の外に一瞬目を向けると、微笑を浮かべて言う。


「教会に協力者はいないのでしょうか?」


 エリスは、肩を軽くすくめ、少し皮肉めいた笑みを浮かべながら答えた。


「教会? ああ、期待はしないほうがいいわよ。自分たちの利益しか考えていないのだから。信仰だの神のご加護だの、ただの建前なのよ。結局は権力と財産を守るために動いているだけ。そうでなければ、これほど長く帝国の下でやっていけるわけがないでしょう」


 その言葉には、教会に対する深い不信感が滲んでいた。そもそも、根っからの唯物論者であるエリスが教会の人々を見下さない理由はなかった。


「そう……教会はダメなのかぁ」


 アルマはため息をつきながら、しばし考え込んだ。彼女の中で、ある別のアイデアが浮かび上がっていた。それは、彼女がこの世界に転生して以来、ずっと考え続けていたことだった。


「それじゃあ、攻略対象の男たちを味方につけられないかしら?」


 アルマは唐突に言い出したようにみえて、彼女の声にはセリーナに対して少しの躊躇があった。確かにセリーナは、アルマが「この世界は乙女ゲームだ」と言い出したとき、その意味がさっぱりわからず、それを古い予言書の一節か何かだろうと考えていた。しかし、断罪イベントの前にアルマが抱いていた不安が、実際に婚約破棄という形で現実になった以上、セリーナはその奇妙な話を一笑に付すことはできず、むしろ冷静に受け入れ、オカルティックな言葉にも耳を傾ける度量を持っているようだった。


 エリスはそんなアルマの二重の大胆さに、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに苦笑を浮かべた。


「また乙女ゲームの話に戻ってしまうのね……まあ、その手のゲームには詳しくないのだけど……本来なら、それを考えてみる価値はあるかもしれないのだけど……」


 結論が口の中で溶けないものだと確認してから、エリスは言った。


「ただ、残念ながら、私はその攻略対象と恋愛関係になることはできないわよ」


 アルマは驚いて尋ねた。


「どうして?つい昨日まで逆ハーレムエンドに向かっていたのだから、あなたなら十分、攻略対象になれるんじゃない?」


 エリスは少し困ったように目を伏せ、静かに答えた。


「実は……私はもともとこの世界に来る前、男性だったのよ」


 アルマは驚愕した。彼女は何か思いもよらない答えが返ってくるかもしれないと覚悟していたが、まさかエリスが元男性だったとは、気付いていなかったのである。


 彼女の頭の中は一瞬、真っ白になった。本来なら男性であるエリスが女性としてこの世界に転生してきたという事実が、まるで予想外の出来事のようにアルマの胸に響いた。


「男だった…ですって?」


 アルマは信じられないというように繰り返した。


「それじゃあ、あなた……」


 エリスは軽く頷きながら続けた。


「ええ、私はもともと男性だったのよ。だから、その乙女ゲームのヒロインとしての役割を担うのは……正直に言えば難しいでしょうね」


 セリーナはエリスが以前男性だったと告げても、特に驚く様子を見せなかった。彼女の瞳には、すでに多くの事実を見通しているかのような落ち着きが宿っていた。


「そう、なるほどね」


 まるで当たり前のことのように微笑みながら、セリーナはつぶやいていた。


「加えて、私は同性愛者ではなかったから、女性が好きなんじゃないかしら。どこかでこのことが枷になってボロが出てしまうでしょう。だから、同志の提案は素晴らしいものだと思うのだけど、受け入れられないわよ」


 アルマはエリスの言葉に茫然としてしまった。彼女はエリスが女性としてこの世界で振る舞っている姿に慣れ親しんでいたため、彼が男性としての過去を持っているという事実に、しばし言葉を失った。


 エリスが再び話し始める前に、セリーナが口を開いた。


「実は、私に一つ考えがあるのです。私が知っている人物で、協力者として適しているかもしれない人がいます」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る