序章2・悪役令嬢エリスの転生事情

1.ある工作員

 アレクセイ・シルゲィビッチ・シドロフ、その名は東西の情報機関の暗闇の中でひそかに囁かれていた。冷戦の最も冷たい風が吹き荒れる中まだ10代の頃から祖国に仕え、中東や東南アジアの地で自らの存在を隠し続けながらも、数え切れないほどの任務を完遂し、その目的のためには手段を選ばない冷酷無比な工作員として知られていた。


 だが、数十年前、アレクセイの祖国は革命の炎に包まれた。それは民主化と称されるもので、さらに数十年を遡れば新しかったはずの古き秩序が消え去って、古かったはずの新たな秩序が生まれる瞬間だった。


 その混乱の中で、アレクセイは自らの居場所を失った。変わりゆく祖国で革命という名の反動によって政権が崩壊し、自分の属していた組織も失った。


 だが、闇に生きる技術だけは決して失われることはなかった。アレクセイは絶望に屈したわけではない。いや、むしろ彼はその変化を冷静に受け止めた。


 祖国が瓦解しても、逃げ道があった。何枚もの偽造パスポートを手に、中東から東南アジア、そして東欧へとその活動範囲を広げていった。アレクセイは常に誰にも捕らわれることなく、贋のドル札を洗浄することによって蓄えた資金を駆使しながら生き残ってきた。その紙幣は精巧に作られ、どこでも通用したが、アレクセイにとって金はただの手段に過ぎなかった。


 アレクセイの日常は、簡潔でありながらも異様なものであった。


 毎晩、彼は窓から差し込む夕日の光を一瞬だけ浴びた後、サイズの大き過ぎる安っぽいスポーツウェアに身を包んだ。そして、外に出ると、街の片隅に集まるゴプニクたちを見つけ出すことを目的としたパトロールを開始する。


 ―――ゴプニク、それはかつての栄光を忘れた者たち、腐敗した現代社会の産物である。彼らはただのチンピラに過ぎず、社会の底辺に集まる無法者であった。そして、アレクセイにとって彼らは、処分すべき「腐った果実」でしかなかった。


 彼はその日も、街をゆっくりと巡回していた。安くはない日本製のSUVは、その黒光りするボディが夜の街に溶け込んでいた。エンジン音を響かせながら移動するその車の中で、かつての任務を思い返す。


 20代だった頃、インドシナで行った作戦のことを。


 地元の部族の信頼を得るため、現地の女性と結婚するふりをしていた。彼女は確かに美しかったが、アレクセイの目にはただの駒でしかなかった。作戦が終わると同時に、過去の一部となり、二度と会うことはなかった。


 その時、車の前方に不審な動きをする集団を見つけた。訓練された目には、即座にそれが例のゴミ共であることがわかった。彼らは中央アジアからの移民と思しき男を取り囲み、暴行を加えている。アレクセイはSUVを道路脇に停めて静かに降車し、淡々とした足取りで彼らに近づいた。


「おい、どうした?」


 声は低く響いた。


 その一言で、不良たちは一斉にアレクセイの方を向く。アレクセイはその目を見据えながら、おもむろに拳銃をポケットから引き抜いて、一人につき2発ずつ撃ち込んだ。撃たれた者たちはあっけなく倒れた。まだ手がかすかに動いていた者の頭には躊躇なく最後の弾丸を撃ち込んだ。アレクセイは一切の感情を排していた。


 彼にとって、これが一日の仕事なのだ。


 残るのはアレクセイとリンチを受けていた男だけとなった。男は地面に倒れ込み、かすかに息をしていた。


「起きろ」


 男に無情に言い放つと、アレクセイはその体を引きずり起こして車に乗せた。そして無言のまま最寄りの病院へ向かう。病院の駐車場に到着すると、男を車から降ろし、駐車場の片隅にそっと置いた。


 その時、アレクセイはふと、自分自身が病に侵されていることを思い出した。数年前から体に異変を感じていたが、それを無視していた。医者にかかることは一度もなかった。命は道具であり、いつか消えるものでしかなかったからだ。


 病は確実に彼を蝕んでいた。肺に沁みるような痛みが増し、夜には咳が止まらなくなっていた。それでも彼は、自らの使命を果たすために生き続けた。


 この男が今も活動を続ける理由は、ただ一つ―――復讐


 アレクセイにとって、祖国を裏切った者たち、そしてその後を受け継いだ偽りの指導者たちは許しがたい存在だった。そして復讐心は、ゴプニクと呼ばれる無軌道に暴力を振るう若者たちに向けていた。彼らはアレクセイにとって、ただの処分対象に過ぎなかった。その信念を胸に、男は次の街へと向かおうとする。


 それが生きる意味であり、選んだ道だった。たとえその道が、やがて破滅へと向かっていくのだとしても、アレクセイ・シドロフは最後までそれを貫くつもりだった。冷えた夜風が頬を撫でる中、再び車に乗り込み、次の「獲物」を探しに闇へと消えていった。

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