【16】氷の鏡

「カノンさん。ユクシ君の手当て終わったみたいですよ」

「あぁ、ありがとうございます。ウチの息子を運んでくれたばかりか、治療まで⋯⋯」

「いえ、運んだのも治療も私ではありませんし、その言葉はオウガさんに言ってあげて下さい。私には治癒の心得があんまり無くって」

「包帯で圧迫死させる一歩手前を、あんまりとは言わねえよアホリーン」

「お、オウガさん。余計な情報を無闇に開示しないで下さい。あとその愛称は絶対嫌ですから」

(⋯⋯愛称? 蔑称のつもりで言ったんだがな)


 にべもない本音を心内に留めながら、オウガはお茶で喉を潤した。散々な悪評を裏付けるだけの口の悪い男だが、時には不用意な言葉を避けるだけの甲斐性はあるのだ。


「助かります。クェーサーの方々のお手をすっかりわずらわせてしまいまして。本当に、困った息子で」

「いえ、元気なお子さんかと」

「そりゃ皮肉か?」

「え。い、いやそんなつもりは」

「いいんですよ、息子のことでアイリーンさんが悪びれる必要なんてないですから。おかげさまで、大事には至りませんでしたし」


 そんな彼らに改まって深々と頭を下げるのは、カノンという名のやつれ気味の女性であった。

 オウガが口を付ける茶を淹れた人物でもあり、成り行きで保護したユクシの母親でもある。

 村人達からの伝手で気絶したユクシの家を探り当てた時からずっと、彼女は申し訳なさそうに頭を下げてばかりだった。


「ユクシ君は良く揉め事を?」

「そう、ですね。コビン君や他の友達とよく口論して、拗ねて帰って来る事はしょっちゅうです。けど、顔を腫らすまで喧嘩なんて初めてで。危ない事はしないでと、いつも言い聞かせてるのに」

「ククッ。口論ばっかりねえ。声はデカいが小心者ってか?」

「⋯⋯臆病な子なんです、本当は」


 臆病と聞いて、アイリーンは首を傾げた。

 三対一の人数不利でも構わずに拳を振るったユクシである。無謀ではあるが、臆病ではない。

 少なくとも彼女の目にはそう映っていたが、母親の目には見え方が違うのだろう。

 そしてもう一人の傍観者の目にも。


「父親」

「え?」

「親父が歴戦のクェーサーだの、親子揃ってホラ吹きだの。んな感じにナメられたのが余程頭に来たらしいぜ。詳しくは聞こえなかったがな」

「あの子ったら⋯⋯」

(父親、ですか)


 ざっくりとした物言いだが、オウガは頓着しない。重要なのは臆病な少年を駆り立てた一線がどれであるかだ。歴戦の戦士。嘘つき。そして、父親。

 該当しそうな線の内の一つをなぞったアイリーンの表情が、私情で曇る。

 一方で、今にも降り出しそうな曇り顔をみせたのは、カノンであった。


「──"ギルド・ステイメンの一員だった"。それが私の夫、カークスの誇りでした」

「ステイメンだと? 聞いた事とあるか」

「⋯⋯いいえ。序列四十八の中に、そんなネームのギルドは無かったかと。私の記憶違いで無ければですが」

「当然です。夫が言うには、もう二十年以上も前に解散したギルドですから」


 カノンが訥々と語り出したのは、夫や自らにまつわる古びた思い出話だった。


「アルブット郊はご存知ですか?」

「アルブット郊⋯⋯確か、シャプレ村を更に南へ降った先にある大都市でしたか」

「はい。それで、ステイメンはそんなアルブット郊でもそれなりに名を馳せたギルドだったそうです。夫が言うには、ですが」

「正確な所は分からねえってか」

「この村で育ち続けた私は、お恥ずかしながら世情には疎かったので。そんな折、ギルドが解散して以降、放浪していた夫に出逢って。私にも、よく聞かせられたものです。どんな魔物と闘ったのか。どんな危機を乗り越えたのか。村の柵の内側で、ずっと両親の畑を耕す日々を送っていた私には、御伽噺おとぎばなしの様だった」


 懐かしむかのような儚い微笑みだった。

 故人を偲ぶ喪服の黒が、カノンの目の下に薄っすら浮かぶ。


「けど、私のお腹にユクシが宿ってから、夫はアルブットに仕事を持つようになりました。私はこの村で穏やかな日々を過ごすだけでも幸せでしたが、ユクシの為でもあったのでしょう。お金はあっても困らないからと、アルブットに通っては村へ戻る。そういう生活を送っていました」

「そう、なのですか。アルブットは確かにリボル村とはそう離れてはいませんが⋯⋯」

「勿論、アルブットに移る事も考えましたよ。けれど両親から継いだ畑を手離さなくて良い、と夫に言われまして⋯⋯でもやっぱり辛かったんだと思います。元々思い出話の多かった人ですが、アルブットから帰ってからは村の皆にまで思い出話を語っていましたから」


 当時の抑揚もあるのだろう。

 会った事もないカークスへの人物像を作り上げるのは、二人にしても容易だった。


「けれど⋯⋯思い出だけでは足りなかったのかも知れません。夫は段々と、ギルドに属していた頃のように振る舞うようになったんです」

「振る舞う、ですか?」

「⋯⋯恐ろしい魔物を倒した、凶悪なマリグナントギフト犯罪者を捕まえた、と。まるで、今もギルドソルジャーなのだと村中に誇るようになってしまって」

「ステイメンが復活した、という訳ではないんですか?」

「⋯⋯いいえ。アルブットへ稼ぎに出ている村の者は、夫以外に居ましたから。夫の嘘は、私も薄々察していました。けど、私は止めませんでした。周りからも段々と白い目で見られるのは分かっていましたけど、それが夫の安らぎになるのなら⋯⋯と。遂には、夫の過去を信じるのは、あの子だけになってしまいましたが」


 居場所の喪失。過去への郷愁。

 幸福の裏にちらついた、手放せない追憶。

 村人達も次第にカークスの発散に愛想を尽かせたのだろう。くたびれた男に、英雄像は重ならない。


「武勇伝の真偽なんざ、俺にはどうでも良い。だが、十日前にソイツが居なくなっちまったってのは本当か?」

「⋯⋯それを、どこで?」

「揉めてる方のガキがほざいていた事だ」

「コビン君が。ええ。確かに夫は十日前に、行方を眩ませました。"水門を襲う魔物達を、なんとかしなくては"と。私の制止も振り切って⋯⋯」

「で、そのまま行方知らずって訳か」


 肯定と同義の沈黙が、部屋を包む。

 少年達の口論の中で漏れ聞こえた、不可解な情報の経緯。逃げたか。それとも、水門へ向かったのか。

 村人達の見解は前者なのだろう。水門は要所であり、崩壊すれば未曾有の水害を招きかねない。


(水門は派遣兵士共が警護にあたってる、つう話だった筈だ。向かったんなら、どうなったにせよ情報は得られる。だが、伝わってねえんなら⋯⋯)


 夫の過去を信じるのは、"あの子だけ"。

 そう語ったカノンを思えば、真偽を問うまでも無い。


「あの子は今も、信じています。夫が特別で、歴戦のギルドクェーサーで。魔物達を討ち倒して、私達のもとに帰って来てくれることを」

「⋯⋯」

「ですからどうか、お願いします。オウガさん、アイリーンさん。この村の危機を⋯⋯救ってください。あの子がもう、囚われずに済むように」

「⋯⋯チッ」


 深々と下げられた頭と誠実な願いに、オウガは持て余したように舌を打った。

 気絶したユクシを連れた際、過剰なまでにカノンが礼を述べていた理由もこれで分かった。彼女にはもう、あの子だけしか居ないのだと。

 願うのは村の安寧。けれどそれ以上に、息子の平穏を望んでいる。

 母としての真摯な願いにオウガよりも先に答えたのは、長らく口を閉ざしていた筈のアイリーンであった。


「初めから信じなければ、楽なのに」

「アイリーン、さん?」

「⋯⋯オマエ」


 だが、その答えは肯定ではなく。

 芯まで凍えたような、冷たい否定の言葉であった。


「だって、そうじゃないですか。カークスさんが逃げた事は、誰にだって分かるくらいに明白で。それでもまだ信じ続ける事に、意味はあるんですか。無理矢理にでも向き合わせてしまう方が、私は良いと思います」

「で、ですが、無理矢理にでも向き合わせてしまえば、あの子の心は⋯⋯」

「遅いか早いかの問題です。例え魔物の問題が片付いても、どの道、父親に裏切られたという結論は変わらない。貴女がユクシ君の心をおもんばかるのなら、なおさら父親への信用は捨てさせるべきです」

「⋯⋯そ⋯⋯そう、なのかも知れませんが⋯⋯」


 アイリーンの言葉に、筋が無い訳ではない。

 クエストが片付いたとしてもユクシがカークスを信じ続けるのならば、彼の心は痛みを負い続けるだけだ。

 ならば現実を突きつければ良い。その理屈は、オウガとて分からなくもない。

 しかし、彼女の物言いは明らかに普段と違い、冷徹であった。


「⋯⋯父親の言うことなんて、信じられるものじゃないのに」

『私は、信用も信頼も、したくはありません』 


 まるであの初対面の時を思い出させる、感情全てを凍りつかせた否定。

 私情の上に見出した結論を、押し付けるかの様な冷たさ。頑なだった。切実なほど。

 その奥底で凍りついたものこそ、異常なまでの人間不信の深き根であることに、オウガが気付いた時だった。


「信じるなって、そんなの僕の勝手だろ!!」


 まだあどけない少年の、悲鳴めいた叫びが響き渡った。


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