第二回 文章上達法(1)
前回で文体についての説明と作家の分析を行いましたが、今回はいったいどのようにして文章というのは上達していくのかについて話したいと思います。とはいえこれと定まった上達方法があるわけではなく最終的には個人々々の裁量によるところがありますから、これから私の書くことを一から十まで全て実践するのでなく自分なりに改良していくことをおすすめいたします。
まず文章を書く力、いわゆる文章力というものの説明をしますが考えていただきたいのは、文章力が高いということが一体どういうことなのかということです。これにもまたさまざまな考え方があるであろうことは承知しておりますが、私なりの考えを述べますと文章力が高いとは「自身の伝えたいことを正確に言葉で伝える能力」があることを言います。
つまり「文章を上手く書きたいならこうやって書け!」という方がいらっしゃいますが、正確に伝えたいことが伝わるのであればそういった定石には囚われるべきでなく、むしろそれ自体が枷となるので私自身あまりよくは思っておりません。ここで注意しておきたいのは私は「自身の伝えたいことを正確に言葉で伝える能力」と書きましたが、そのなかには「伝えないことで伝える」という技法もあるにはあります。
とにかく頭の中にあることを正確に完璧に伝える、これを意識しなければ文章力は上達しません。
では、どうすれば正確に完璧に伝えられるようになるのかを考えていきましょう。
定まった形に縛られるものではないと言ってあれですが、文章を正確に伝える技法は大まかに、
・比喩法
・空白法
・明暗法
・時間法
・字音法
の五つのツリーに分けられます。
大きく分けるとこの五つというだけであって、細かいところを言うとここからさらに枝分かれしていきますが、とりあえず今は原点たるこれらだけ押さえていただければ充分かなと思います。
ではまず比喩法ですが、まあ学校の授業でも教わったでしょうし大体の人は分かっていると思うので、比喩法に含まれるいくつかの技術について説明します。
比喩法には、「直喩」「隠喩」「擬人法」「メタファー」の四つがあり、前記三つは文章的な技法で「メタファー」は物語の構造的な技法に分けられます。(メタファーと隠喩は同じような意味ですが、ここでは文章の隠喩と物語の隠喩を別として扱うのでご了承ください)
「直喩」は普通の比喩表現。
「彼女は花のような笑顔を浮かべた。」
笑顔を花に喩えるというのは随分陳腐な比喩ですが、単なる例ですのでお許しください。
「隠喩」は比喩であることを明らかにしない比喩表現。
「夏の酷暑に食べるかき氷は砂漠でのオアシスだ。」
ところで、たかが砕いた氷にシロップをかけただけのものがどうして数百円もするのか甚だ疑問でなりません。
「擬人法」は物や動物を人のように描写する比喩表現。
「この洞穴を根城にするきつねは、人を恐れて滅多に外に出ない臆病者の引きこもりである。」
全く関係ないですがごんぎつねを思いだしました。
「メタファー」は物語単位での隠喩、象徴。
こちらは例文で表現するのが非常に難しい、というか出来ないのでメタファーを使う代表的な作家、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」という作品のメタファーを紹介したく思います。(敬称略)
ねじまき鳥クロニクルの話の流れについて簡単に説明しますと、突然失踪した妻をめぐってなんかいろいろある話です。
なんかいろいろ、の部分はふざけているわけではなく一部分を説明するだけでもさまざまな欠けたピースを揃えねばならないので、申し訳ないですが簡単に説明するとなると本当になんかいろいろ、としか上手く表現できません。(複雑であるというだけで、この作品自体は非常に面白いものです)
作中ではたびたび、作品の題名にもなっているねじまき鳥が登場します。
ねじまき鳥は登場人物の「宿命」の象徴となっており、読んでみると実際にねじまき鳥の登場シーンが作品において重大な意味を持っていることが分かります。
ねじまき鳥に限らず、村上春樹作品の多くはいくつかの重大なメタファーが隠されていて、それらを考えながら村上春樹の作品を読むと、普通に読むよりも楽しかったりします。
比喩法に関しては以上です。
空白法とはつまり「意図的に空白をつくることで読者に想像させる」ことです。
日本人は自分と作品のあいだに置かれた薄皮一枚程度の絶妙な謙虚さを美しく思いますから、1〜100まで全て説明するのではなく、その要所々々に空白を設けることで、読者に想像の余地を残します。
これには文章的なものと物語・人物的なものがあり、谷崎潤一郎の文章読本から引用して文章的なものを「含蓄文」、物語・人物的なものを「含蓄噺」とします。
含蓄文は文章の無駄を削り、意味に意図的に空白をつくったものです。
「彼が橋の上に長い間立っていると、冬を絵に描いたような冷たい風が殴りつけるがごとく彼を打ちつけた。しかし彼はバッグのなかにあるはずのコートを身につけようとしなかった。何故ならそのコートは今は亡き彼の恋人のものだったからだ。」
少し分かりやすすぎる気もしますが、この文章は非常に無駄が多い。
こちらを「含蓄文」に変えてみます。
()の中の文章は無駄な文章です。
「彼が橋の上に長い間立っていると、(冬を絵に描いたような)冷たい風が(殴りつけるがごとく彼を)打ちつけた。(しかし彼は)バッグのなか(にあるはず)のコートを身につけようとしなかった。(何故ならそのコートは)今は亡き(彼の)恋人のものだった(からだ)。」
「彼が橋の上に長い間立っていると、冷たい風が打ちつけた。バッグのなかのコートを身につけようとはしなかった。今は亡き恋人のものだった。」
さらにこれを自然な、それでいて無駄のない文章に直すと、
「橋の上に長い間立っていると、冷たい風が打ちつけた。彼はバッグのなかの亡くなった恋人のコートを身につけようとしなかった。」
文字数は少なくなりましたが、見比べてみてみればどちらがより分かりやすく、また伝わりやすいか、美しいか分かると思います。
文章力を上げるには間違いなく含蓄文が必要不可欠です。
次に含蓄噺についてですが、こちらはベルセルクというダークファンタジーの漫画を例えとして説明しましょう。
ベルセルクの主人公ガッツは幼いころから剣を握り戦場に身を置いていましたが、十五歳のときにその腕を見込まれて鷹の団という傭兵団の団長グリフィスからスカウトを受けます。
グリフィスには自分の国を手に入れるという野望がありました。
ガッツが加入した鷹の団は三年もの間快進撃をつづけ、十八歳になるころにはグリフィスは将軍となり、ガッツは鷹の団の切り込み隊長として国の英雄となります。
しかしすれ違いによってガッツが鷹の団を離れてしまうと、自暴自棄に陥ったグリフィスは無理やりに王の娘を抱いて、怒った王様により地下牢で一年間拷問を受けることになってしまう。
鷹の団は国家謀反を企んだ反逆者たちとして人々から追われる身となりますが、一年後、鷹の団を離れていたガッツと再会し、なんとか地下牢に閉じ込められたグリフィスを救出します。
しかしグリフィスは拷問によってもはや剣を握ることも立つことも喋ることもかなわず、恋焦がれた夢の終焉、唯一対等と認めた友ガッツからの同情に絶望し、そのときに彼が放った台詞が、
くるな………くるな…………
今お前に触れられたら
今お前に肩を掴まれたら
オレは二度と
オレは二度と………!!
二度とお前を…………
ベルセルクは月刊ヤングアニマルで連載されている漫画ですが、単行本になる前は「二度とお前を…………」の部分が「二度とお前を許せなくなる」だったそうです。
作者の三浦建太郎は書き込みや巻末コメントからも分かるように(気になる方は漫画を購入するかネットで調べてみてください)漫画に取り憑かれたような方でした。
許せなくなる、と断言してしまうよりもあえてそこに穴をつくることで、物語、そしてグリフィスという人物に深みが与えられることを承知だったのでしょう。
他にもさまざまな細かい「穴」はありますが、それらはベルセルクという作品を実際に読んでご確認ください。
ちなみに私はベルセルクの黄金時代編は日本漫画史上最高傑作だと思っています。
つづいて明暗法ですが、簡単に言うと「メリハリ」です。
例えば異世界に転生してチートスキルで無双するファンタジー系の作品を書くとしましょう。
クイズです。
以下の四つのうちで、一番力を入れなければいけない場面(A)、また力を抜かなければならない場面(B)はどこですか?
1.トラックに撥ねられて異世界に転生
2.魔物に襲われている貴族の令嬢をチートスキルで助ける
3.感謝されて令嬢の屋敷へ招待される
4.主人公に不信をおぼえた屋敷の騎士と決闘
吐き捨てるほど存在する陳腐な流れではありますが、気にしないでください。
さっそくですが正解発表。
Aは4、Bは1です。
なぜかというと、この作品を読んでいる人が一番期待しているのは主人公のすごさが周囲の人に知れ渡る瞬間(つまりヨイショ)ですから、実力を認められている騎士と戦って勝つという場面では主人公のすごさが読者にも伝わるようにしなければなりません。
逆に転生して云々は読者にも分かりきった展開ですから、ここにいちいち力を入れてしまうとくどくなってしまいます。(昔の作品だと転生してからの流れがあまり定まっておらず、今のように「あーはいはい転生ってことはこういう展開がくるのね」みたいに予想ができないのでここにも力を入れている作品は多いです)
今、私は明暗法についてエンタメ性という観点から話しましたが、これはいわゆる純文学などの作品にも使うことができます。
力を入れる入れないの他にも、心情を描写するしない、明るい雰囲気にするしない、など物語上で明るい部分と暗い部分とを定めることで、伝えたいことがより分かりやすく伝わるようになり、確実に作品の質が上がります。
時間法とは作品内での時間と現実での時間に関するものです。
また、作品のテンポ感なども時間法に含まれます。
時間法はかなり難しく、プロの作家でも上手く活用できている人はなかなかおらず、私の知る限りだと時間法を巧みに使っている日本の作家は太宰治と川端康成の二人しかいません。
太宰治は句読点を使うことで文章のテンポ感を上手に操り、川端康成は時間を実際的に使うのではなく認識的に使える作家でした。
また、ドストエフスキーや後期の夏目漱石などは冗長、くどいと思えるほど人物の生活を描き続けることで、そこに確かな時間の重みや人々の影を感ずることができるまでになっています。
とにかく皆様に知っていただきたいのは、時計の針の速度を早いと感じるか遅いと感じるかは個人々々によるということです。
我々があっという間に感じる一時間も、誰かにとっては永遠にも等しい一時間かもしれないし、あるいは我々にとって人生を賭けた長い長い一瞬でも、誰かにとっては簡単に流れていく無数の刹那の一つかもしれない。
そういった時間の流れる速度の変容を一度考えてみてください。
漫画で言うと、葬送のフリーレンなんかは時間法が物語に丁寧に組み込まれていて素晴らしいですね。(長寿のエルフと人間の認識的時間の差異が上手く活かされている)
これを操れるようになれば、あなたは間違いなくプロになることができます。
ちょっと分かりづらいと思ったので、時間法の使われる川端康成の「雪国」の冒頭部分を載せます。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」
はじめの一文なんかは小説の冒頭史上「吾輩は猫である」と並ぶぐらい有名ではないでしょうか。
この場面ではトンネルを抜けてから信号所に電車が止まるまでに短い一文しか挟まれていませんが、実際に舞台となった地にはトンネルから信号所まで結構な距離があったそうです。
真っ暗なトンネルからばっと夜明けの銀風景が開け、その美しさに気を取られているうちにいつのまにか信号所に着いてしまっていた。
この趣を「書かずに表現する」ところに川端康成のすごさがあると思います。
字音法はその名の通り、言葉の意味ではなく字面や音で表現する方法です。
まあこれは説明するより見てもらった方が早いでしょう。
以下はまだ発表していない私のある作品の文章です。
「こうして分っても尚、彼は男を追いかけぬ訳にはいかなかった。この夜中に女子の家に押しかけて、何を為出かす気だろう。様々な思いの奔流が彼を押し流し、前へ々々と促した。」
漢字だらけで少々堅苦しい印象がありますが、ひらがなを多くしてみるとどうでしょう? それから送り仮名も現代風に直してみます。
「こうして分かってもなお、彼は男を追いかけぬわけにはいかなかった。この夜中に女子の家に押しかけて、何をしでかす気だろう。さまざまな思いの奔流が彼を押し流し、前へ前へと促した。」
見比べてみて、なんとなく印象が変わった気がしませんか?
どちらが良い悪いという話ではないので、昔風の格調高い感じにしたいならば漢字を多めにしてもいいですし、逆に現代風に読みやすく軽い感じにしたいなら、ひらがなやカタカナを増やしてみるといいでしょう。
音もまた重要です。
五七五を意識した文章とそうでない文章を見比べてみてください。
「襖が開く音がしたのでそちらの方を見ると、例の女が青年の肩にいやらしくもたれながら、襖の奥の廊下に出ようとしていた。私は不思議な感慨でそれを眺めた。」
「襖の開く音がして、そちらを見ると、例の女が青年の肩にいやらしくもたれながら、奥の廊下に出ようとしていた。私は不思議な感慨で眺めていた。」
下手くそですが、なんとなく後者の方がリズムがいいように感じませんか?
文章における音やリズムというのは非常に大切なので、今すぐとは言いませんから頭の片隅だけでも意識してみてください。
すみません、想定していたよりも長くなってしまったので二つに分けます。
今回で頭の中を正確に完璧に伝えるための技法を説明しましたので、次回はそれらを活用した文章を書くにはどのような修練をすればよいのかなどを語りたいと思います。
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