第12話 冷たくて、甘い

(わたくしの髪に似合う……? 美しい……? この方、何を仰っているの?)


 ジュディスは自分の髪が嫌いだった。

 純粋な赤毛とも違う、赤っぽい薄い茶色。赤茶と言うよりもだいだい色と表現するほうが近いかもしれない。

 両親も弟達も深い栗毛色の美しい髪をしているのに、なぜかジュディスだけ赤味が強く出てしまったせいで、子供の頃には人参のようだとからかわれたこともある。

 未だかつて髪を褒められたことなどないジュディスの頭にかあっと血が上った。


「……そんな、この髪が美しいなんて……」

「初夏から夏にかけて夕日が沈みかける頃、空は茜色に染まって、昼の名残の青と混じり合った部分の雲はちょうどこんな淡い紫色になるでしょう? 空気が少しひんやりとしてきて、家路を急ぐ人がざわめく。……その瞬間が、貴女によく似ている」

「ど、どうしましょう、わたくし、困ります……そんなふうに仰られると」


 だがジュディスの困惑に気づいていないのか、バーデット少佐は言葉を続けた。

「今日、貴女のお姿を拝見して、改めてそう思いました。そのドレスと靴も良くお似合いだ」


 ジュディスは今日、白地に靴と似たようなラベンダー色で大きな花柄を散らした華やかなドレスを着ていた。……だが実はそのドレスは借り物だった。


 自分の自由になるお金などほとんど持っていなかったジュディスには、貴族の青年と散歩を楽しむような優雅な時間を過ごすためのドレスを仕立てる機会も余裕もなかった。

 それを知ったレジーナが、どうしても自分のドレスを着て行けと半ば強引に貸してくれたのだった。幸いジュディスとレジーナの背恰好はほぼ同じだったので、借り物のドレスでもなんとか違和感なく着こなすことができた。


(レジーナ、教えて、こういう時はどうお答えすれば良いの?)


 ドレスを通じてレジーナに心の声が伝わらないかと必死で念じてみるが、当然レジーナは答えてくれるはずもない。完全に混乱してしまったジュディスはまたしてもとんちんかんなことを言ってしまった。


「で、でも、よくサイズがお分かりになりましたわね。まさか一目御覧になっただけで言い当てられる能力をお持ちだとか?」


 言った瞬間、しまった! と自分の発言を後悔したが、バーデットの反応は違っていた。緊張がほぐれたのか、柔らかく、少し恥じらうような表情になると、秘密を共有するかのように小声で言った。


「そんな便利な能力はありません。……実は、あの後何度か南翼の回廊に貴女の靴を探しに行ったのです。何とか片方だけは見つけることができたのですが、もう一方はどうしても見つけられず……それにもう酷く汚れてしまっていて使い物になりませんでした。ですから勝手なことだとは思いましたが、その片方を靴職人の所に持ち込んで、同じサイズと型で作ってもらったのです」


「え? え? ええっ!?」


 思わずジュディスは周りの人間が振り向くほどの大きな叫び声を上げてしまった。


「バ、バーデット様が、わたくしの靴を、わざわざ南翼までお探しに!? しかもそれを靴職人のところにお持ちになった!?」


 周りの注目を浴びてしまったことよりも、異性にあの靴を見られてしまったこと……それほど履き古してこそいなかったものの、今履いている繻子の靴に比べたら靴と呼ぶのが憚られるほど粗末なを……。そのほうが顔から火が出るほど恥ずかしかった。


 だがバーデット少佐も告白してしまったことが急に恥ずかしくなったのか、立ち上がってジュディスに向かって深々と頭を下げた。


「し、し、失礼なことだったのは、百も承知しております! 申し訳ない!」


 そして場を取り繕おうとしたのか、

「あのっ、喉が渇いていらっしゃいませんか? つ、冷たいものでも!」

 と言い捨てると、踵を返して屋台のほうへ走って行ってしまった。


(ああ、もう帰りたい……)


 ジュディスの瞳に涙が滲んだ。

 南翼の回廊で靴を探してうろうろと歩き回っているバーデットの姿が蘇ってくる。そして、薄汚れた靴を前に靴職人とあれやこれやと会話を交わす姿も……

 恥ずかしくて申し訳なくて、消えてなくなりたいほどだ。


 だが立ち上がろうとした時、向こうから急ぎ足で戻って来るバーデットの姿が目に入り、仕方なくジュディスは再び腰を下ろした。

「良かった。帰ってしまわれたらどうしようかと気が気ではなくて」

 息を切らせてそう言うバーデットから渡された小さな銀のカップを受け取ると、ひんやりと心地よい感触が手に伝わった。


「まあ、これはソルベですね?」

 ジュディスはカップの中を見て、嬉しそうに声を上げた。


 ソルベというのは今年、貴族や裕福な市民の間で大流行している氷菓だ。

 果汁と果実酒を混ぜ、貴重な氷と塩を使って凍らせてから細かく砕く作業を繰り返したもので、作るのに非常に手間がかかる。

 最近になって王立公園の屋台でも売り始められたそうで、ここでソルベを食べるのは令嬢や貴婦人の間で一種のステータスシンボルになっているらしい。

 ジュディスも夜会や茶会で大公ご夫妻が召し上がられる姿は何度か目にしていたが、当然、女官の自分達の口に入る機会などありもしなかった。


「今日は暑いですから。葡萄と野イチゴ、どちらがお好きですか?」

「では、野イチゴを」


 小さなスプーンで一口掬い取って口に入れると、新雪のような少し粒々とした舌触りの氷が喉をすり抜け、後から果汁と果実酒の甘みと香りがほんのりと残る。


「んー、美味しい」

「良かった」


 ソルベに夢中でバーデットの存在をすっかり忘れていたジュディスは、そう声を掛けられて我に返った。隣を向くと、バーデットの薄い青い瞳が微笑んで自分を見つめていた。

 そのまま二人はしばし沈黙したままソルベを味わった。カップが空になる頃には、ジュディスの心もだいぶ落ち着いてきていた。


「あの」

「何でしょう」

「……どうしてそこまで? わたくしのためにわざわざ靴を探して下さったり、新しく作って下さったり……そこまでして頂く理由がわたくしには分かりませんわ」


 するとバーデットはジュディスにまっすぐ視線を向け、はっきりとした声で言った。


「貴女のために、ではありません。私が、そうしたかったのです。私が、貴女を助けたいと望んだ。それだけです。理由など必要ない」


 そして足元の芝生に目線を移し、独り言のように続けた。


「あの日、参事室の前で護衛と押し問答をしている貴女を見かけた。理由はわからないが、貴女が必死だということはすぐに分かりました。普通の令嬢ならば、あんなに息を切らして走ったり、護衛を振り切って議場に入ろうとすることなど考えられない。だけどあの時の貴女は、そんな常識や偽善など吹き飛ばすほどの熱意で職務に忠実でいらした。私は、貴女のその真っ直ぐさに心を打たれたのです」

「わたくしが大公妃殿下の侍女だとご存知のようでしたが」

「ええ、存じておりましたよ。大公妃殿下の侍女の方々は皆とても優秀だと、宮中の誰もが言っています。妃殿下のお人柄がそういう人を引き寄せるのだろうとも」


「本当ですか!?」


 ジュディスの顔がぱっと輝いた。

 大公妃殿下の侍女の職は確かにとてもやりがいがあるし、妃殿下は素晴らしいお方だ。でも時にはやりきれない気持ちになることもある。

 我儘なことばかり仰る貴婦人に一方的に責められて、こちらに非はないのに頭を下げねばならないことは日常茶飯事だし、時には背後からこんな密やかな悪意を含んだ囁きが聞こえてくることもある。


 成り上がり……地方貴族の娘風情……高利貸しの妻……


 妃殿下ご自身は決してそういう口さがない声に流されず、常に微笑みを浮かべて凛とお立ちになっておられるが、ジュディスはいつも憤懣遣る方なかった。

「ええ、本当ですよ。大公殿下もいつも言っておられます。彼女達がいれば大公妃は心配ない、だから、自分は視察だ何だで宮中を長期間不在にしても心平らかでいられるのだ、と」


 ジュディスの目に再び涙が滲んだ。バーデットが慌てて声を掛けた。

「どうかされましたか?」

「……いいえ、何でもありません。これは嬉し涙ですわ」

 そして真っ直ぐな瞳の青年将校に向き直ると頭を下げてこう言った。

「バーデット様。わたくしが難しく考えすぎておりました。素敵な靴をありがとうございます。それから、お優しいお言葉も」

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