第10話 大公家は規格外
(なんだか良く分からないことになってしまったわ……)
大公家の紋章のついた素晴らしく美しい馬車に揺られながら、ジュディスは奇妙な一日を朝から振り返っていた。
が、馬車に並走する形で馬に跨ったバーデット少佐がついてきているのがなんとも気づまりで仕方ない。
そもそもジュディスはこんな立派な馬車に乗ったことがない。内装も決して華美ではなくこの上なく上品で、一つ一つが最高級の素材で作られており、座席に座るなど畏れ多くて床に座っていようかと思ったくらいだ。しかもこれは正式な行事用の馬車ではなくご夫妻の日常使い用なのだから、いやはや、殿下。
王都の中心街を通り抜けて西通りの端まで来ると、馬車が大きくぐるりと円を描くように動くのが分かった。それはつまり、ここには個人の邸宅であるにも関わらず玄関前に馬車寄せがある、それぐらい広大な敷地と屋敷であるということを表していた。
馬車が止まるとバーデット少佐がドアを開け、手を差し出してくれた。ジュディスはその手を取って馬車から降りようとしたのだが、少佐の意図はそうではなかったらしい。
「まだ爪が治られていないのでしょう? 失礼」
そう言うと、ジュディスの返事も聞かず、いきなりその腰を両側から掴んで馬車から抱き降ろしたのだった。そしてすぐに手を離すと、涼しい顔でこう言った。
「私はここでお待ちしていますから」
それだけでも完全に白目になっていたジュディスに、目の前にそびえ立つ大公殿下の私邸がまた追い打ちをかけた。
(殿下、一言よろしいでしょうか。これは私邸ではございません。離宮です……)
それほどまでにフィッツジェラルド邸は巨大で、豪華で、壮麗であった。
ジュディスはもう何も考えないことにした。玄関の大理石の階段を昇り、ノッカーで巨大な扉を数回叩くとほどなくしてゆっくりと扉が開き、執事らしい初老の男性が現れた。
「どちら様でしょうか?」
ジュディスは丁寧に腰を折ってお辞儀をし、名乗った。
「リリアーヌ大公妃様付き侍女のジュディス・メンデルと申します。大公殿下からのご命令で参りました。こちらにいらっしゃるコンスタンティン様という方にこの手紙をお渡しして、お返事を頂戴したいのですが、お取次ぎ頂けますか?」
「かしこまりました。中でお待ち下さい」
手紙を受け取ったその男性の口調と物腰が思いのほか柔らかいことにジュディスは安堵した。招き入れられるまま、玄関ホールに足を踏み入れる。
(すっご……)
「どうぞ、こちらに掛けてお待ち下さいませ」
そう言われても、椅子も豪華すぎておいそれと座れないぐらいだ。……これってもしかしたら王宮の調度品よりも高級なものなんじゃないかしら。
以前誰かが大公殿下は王国の国家予算を上回るほどの資産をお持ちだと話しているのを小耳に挟んだことがある。その時はさすがに話を盛り過ぎだろうと一笑に伏したけれど、こうして自分の目で確かめるとあながち嘘でもないのかもしれない。お仕えする侍女や侍従の給金も基本は宮廷府の規定で決まっているが、そこにお二人のポケットマネーで何だかんだお手当てを上乗せして下さっているそうで、大公家付きの職は宮廷ではかなりの高給取りだということが二年を過ぎてジュディスにも分かってきた。だからどうにか家族の生活を支えることができている。ジュディスは改めて感謝した。
どれぐらい待っただろうか。足音に振り返ると、さきほどの執事の男性ともう一人の男性が連れ立って階段を降りてきた。
年の頃は大公殿下と同じぐらい。たぶんこの方がコンスタンティンという人なのだろう。
「待たせたね」
ジュディスは立ち上がって再びお辞儀をした。
「コンスタンティン様でいらっしゃいますか?」
「そう、コンスタンティン・モルダーだ。よろしく。貴女はえっと……」
「ジュディス・メンデルと申します」
「メンデル嬢、わざわざすまなかったね。手紙は受け取ったよ」
だがコンスタンティン様、とやらはどう見ても手ぶらだ。ジュディスは遠慮がちに促したが、コンスタンティンは平然と答えた。
「あの、お返事を頂いてくるよう言いつかっておりますが……」
「ああ、大丈夫大丈夫。わかった、とだけ言っておいてくれる?」
「そんな、困ります」
ジュディスは食い下がった。なんて無責任な人だろう。だいたいこの方、なぜ大公殿下の私邸に住まわれているの? 殿下とどういう関係なの?
「そう言ってもらえればあいつには伝わるから、大丈夫だよ。じゃあね。アラン、後はよろしく」
(あ い つ ? 大公殿下をあいつ呼ばわり!?)
そうコンスタンティンは言い放ち、ジュディスに向かってひらひらと手を振ると背を向け、再び階段を昇って二階へと消えてしまった。
「御用はお済みですか?」
アランと呼ばれた執事に丁重に送り出されながらとぼとぼと玄関を出てきたジュディスに、バーデット少佐が声をかけた。ジュディスは力なく首を横に振った。
「どうされたのです?」
「……お返事が頂けませんでした。大公殿下からそう言いつかってましたのに……どうしましょう、きっとお叱りを受けますわ」
「大公殿下はそのようなお方ではありませんよ」
真剣な声にジュディスが顔を上げると、バーデット少佐に真正面から見つめられていることに気づいて、急に恥ずかしさが襲ってきた。
「大公殿下は、理由も聞かず人を叱責なさるような方ではありません。お返事が頂けなかったのであれば、そう正直に申し上げれば良いのです」
「そうでしょうか……」
「勿論です。何かあれば私からも口添えします。大丈夫、貴女がいつも何事にも一所懸命なのを私は知って……」
「え?」
ジュディスの両肩に手をのせて熱っぽく語るバーデット少佐に驚いて身を固くすると、彼ははっと気づいて慌てて手を離し、赤くなって顔を背けた。
「……いえ、何でもありません。王宮へ戻りましょう」
王宮に戻り、バーデット少佐が大公殿下の私室の扉をノックした。
「大公殿下、バーデット、ただ今戻りました」
「入りなさい」
少佐が扉を開けてジュディスを部屋に入れてくれる。殿下は書き物机で書類を読んでおられたが、顔を上げてジュディスを見つめられた。
「メンデル嬢、ご苦労だった」
「恐れ入ります、殿下。……ただ、お返事は頂戴できませんでした。申し訳ございません」
「コンスタンティンには会えたか?」
「はい。お手紙は間違いなくお渡ししました」
私は返事をもらって来いと言ったはずだが? という殿下の厳しいお声を覚悟していたが、返ってきたのは拍子抜けするようなお言葉だった。
「そうか。まあ、そうだろうな……何か言っていたか?」
「はい、わかった、とお伝えするように言いつかりました」
「わかったと言ったのだな? 他には?」
「あの……殿下のことをあいつと」
かなり逡巡した挙句思い切って言ってしまった一言だが、予想に反して殿下はははは、と小さくお笑いになったので、ジュディスはほっと胸を撫で下ろした。
「そうか、それは驚かれただろう……メンデル嬢、面倒なことを頼んでしまってすまなかったね」
「とんでもないことでございます、殿下」
「仕事に戻りたまえ。バーデット少佐、送って差し上げろ」
「はっ!」
少佐が直立不動で敬礼したので、咄嗟にジュディスは一人で戻れますから、と遠慮しようとしたのだが、もう既にバーデット少佐は私室の外に向かって歩き出してしまっていた。慌ててジュディスは大公殿下にお辞儀をすると少佐の後を追いかけて廊下に出た。
「バーデット様、お忙しゅうございましょう? わざわざお送り頂くには及びませんわ」
「いえ、大公殿下のご命令ですから」
忙しいを理由にして断ろうと思ったのに一蹴されて、仕方なくジュディスはバーデット少佐と並んで歩きだした。といっても大公殿下の私室と妃殿下の侍女控室はほんの目と鼻の先なのだが。
「……そういえば、靴は見つかりましたか?」
唐突にバーデット少佐に質問されて、ジュディスは答えに詰まった。
「いえ、あの後探しに行ったのですが、見つかりません……あ、でも、どちらにしても爪が治るまで靴は履けませんから、不便はございませんの」
一気に言ってしまった後で、なんて間抜けな返事をしてしまったのだろうと後悔が押し寄せる。そういうことを訊かれた訳ではないと理解はしているはずなのに、どうも調子が狂う。
だがジュディスのとんちんかんな返答に少佐は真面目な顔でうんうん、と頷いた。
「確かに、爪があのような状態では靴は履けませんね。私も訓練でよくやりますが、その後数日間は靴を履くのが心底恐ろしいです」
「まあ、その近衛の皆様のような長靴をお履きになるのは、さぞ痛いのではございませんか?」
「そこは気合で乗り越えるしかありません。夜、宿舎に戻ってからこっそり泣きますが」
バーデットのような将校が夜、足を抱えて咽び泣いている様子を想像して、ジュディスは思わず声を上げて笑った。
それは不思議な時間だった。王宮の廊下を、青年将校と並んで歩きながら言葉を交わしている。それはとても気づまりで緊張するはずなのに、どこかとても心地よくて楽しい。
あっと言う間に侍女控室の前まで辿り着くと、ジュディスは改めてバーデット少佐に深々とお辞儀をして言った。
「ありがとうございました、バーデット様。あの、以前手当をして頂いた際のハンカチ、新しいものをお返ししたいのですが」
バーデットは笑って首を横に振った。
「そのようなこと、お気になさらないで下さい。お怪我が酷くならなくて良かった」
「でも、それではわたくしの気がすみませんわ。何かお返しをさせて下さいませ」
するとバーデット少佐は、ジュディスが全く思ってもみなかったことを言ってきたのだった。
「……それでは今度のお休みの日に、王宮の外で会って頂けませんか? お誘いすることをお許し頂きたい」
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