第8話 思いもよらないお言葉

 侍従がお茶と茶菓子を運んできて、ジュディスの前に置く。


「朝早くからすまないね。朝食は済んでいるか?」

 そう訊かれて初めて、ジュディスは今朝まだ何も口にしていないことに気づいた。途端に目の前のお茶とお菓子がさあおいでおいで、美味しいわよ……? と全力で誘惑してくる。ダメダメ、今はそうじゃないの。

「……はい、頂きました」

 なるべく気取られないように答えたつもりだったが、大公殿下にそんな小細工は通用しなかったようだ。

「嘘が下手だね、メンデル嬢。遠慮はいらないから食べなさい。空腹では話もできまい」

「恐れ入ります……頂戴いたします」


 音を立てないように細心の注意を払いながら、カップのお茶を飲み、ケーキを一口フォークで切って口に運ぶ。甘さとスパイスとチョコレートの香りが脳内に拡がって、痺れそうだ。

「口に合うと良いが」

「……美味しゅうございます……」

 ジュディスが感動のあまり涙目になって呟くと、殿下はうんうん、と頷かれた。

「大公妃もこの菓子が好きでね、たまに届けてもらっている」

 そう仰るとご自身のお皿に盛られた砂糖菓子を摘んで口に入れられた。それを見たジュディスは信じられなかった。


(大公殿下が、お菓子を召し上がっておられる……!)


「どうかしたか?」

 殿下に訊かれてジュディスははっとした。どうやらフォークを握ったまま大公殿下を凝視してしまっていたようだ。慌てて頭を下げる。

「し、失礼いたしました。あの……いえ、何でもございません」

「何か言いたいのだろう? 鳩が豆鉄砲を食ったような顔で私を見ていたぞ。中途半端は良くない。言ってみなさい」

「いえ、あの……その……大公殿下が甘いものを召し上がるとは存じ上げませんで……驚いたと申しますか……」


 言ってしまってからしまったと思ったが、殿下の反応はごく自然だった。


「普通に好きだが?」

「!」

「大公妃から聞いてないか?」

「初めてお伺いしました」

「そうか」


 ジュディスは訳が分からなくなってきた。目の前の大公殿下が、この状況を楽しんでおられるようにしか見えないからだった。


 だがお菓子は文句なしに美味しかった。ジュディスが平らげてフォークを置くとさりげなく侍従がお皿を下げて、お茶のお代わりを注いでくれた。

「まだあるぞ?」

「も、もう十分でございます、殿下。ご馳走様でございました」

「そうか。では、本題に入ろう。さて、今日わざわざ呼び立てたのは他でもない」

 そう言うと大公は組んでいた足を下ろし、両手を膝の上で組んでジュディスに正面から向かい合った。


(来た……!)

 ジュディスは両手でドレスのスカートを握りしめて、頭を垂れた。


「礼を言わせてくれ」

(え……?)


「……は?」

「貴女の迅速で勇気ある行動のお陰で、すぐに大公妃の元に駆けつけることができた。感謝している」


 上目遣いで前を盗み見たジュディスの目に映った光景は彼女の驚きを更に加速させた。


(大公殿下が……頭を……下げられている……わたくしに向かって……嘘……)


「でっでっ、殿下! 勿体のうございます! お顔をお上げ下さいませ! お願いでございます!」


 大公がゆっくりと顔を上げられた。

「本来ならもっと早くにこうして貴女に礼を述べなければならなかったのだが、私もなにぶん動揺していて、あの時参事室まで報せに来てくれた人物のことにまで考えが及ばなかった。改めて、礼を言う」


「殿下は……怒っておられるのではないのですか……?」

「怒る? 私が貴女にか? 何故?」


 とうとう堪え切れなくなってしまって、ジュディスの両目から涙が溢れた。


「わた、わたくしが、妃殿下の、お体を、もっと、日頃から、きちんと、注意しておけば、妃殿下が、お倒れに、なること、も、なかった、でしょうし、あっ、あんなふうに、王宮、を、走り、回って、皆様、大公妃殿下は、じ、侍女に、どんな教育を、されておられるの、かと、思われたのではないかと」


「……待て、待て待て」


「会議、の、場に、女子が入っては、ならんという、ことも、忘れて、殿下、に、お取次ぎを、お願いして、あの場に、おられた、皆様を、お、お、お騒がせ、して」


「ちょっと待ちなさい。落ち着いて」


 ジュディスは大公殿下になだめられ、薦められるままにお茶を飲んだ。落ち着くと、自分があまりにもお馬鹿さんに思えて消えてしまいたくなりそうだった。だが殿下は真面目なお顔のまま静かに待っていて下さった。


「話しても良いか?」

「はい……取り乱してしまい、申し訳ございません」

「貴女は大変な思い違いをしている」

「?」


 大公は子供に諭すようにゆっくりと話を続けた。

「まず、大公妃の体調の件。確かに侍女は主人の日常生活に目を配るのも大事な仕事だが、最終的に決めるのは本人だ。ましてや責任ある立場なら尚更、自分が倒れることでどれだけ周りに影響があるかを常に考えて行動せねばならん。大公妃の責任感が強いのは結構なことだが、努力と無理を履き違えるのは良くない。現にこうして皆に迷惑をかけた」

「……」

「だからそれに関しては私のほうからきちんと大公妃に話をして、彼女も理解した。貴女が責任を感じる必要は全くない」


「はい……」


「次に貴女が王宮を全力疾走した件。あの時は貴女以外に動ける人間がいなかったし、何より急を要する事態だった。私は貴女がまず何よりも私に知らせることを最優先して、やるべきことをやっただけだと思っている。だから不作法だろうが何だろうが気にする必要はないし、そんなことを咎める口さがない人間は放っておけばよろしい。貴女の名誉は私と大公妃が守る」


「お、恐れ入ります」


「それから参事室での一件。あれはどう考えても宮中で働く侍女全員の顔と名前を憶えていなかった護衛の怠慢だ。あいつらは貴女の肩を突き飛ばして床に転ばせたそうだな?」

「突き飛ばしたと申しますか、弾みで……」

「同じことだ。しかもその時貴女は靴もなく足を酷く怪我していたというではないか。なんという思いやりのないボンクラどもだ。……っと、失敬」

「ボンクラ……」

 不謹慎だが笑ってしまった。


「それから最後に、会議中に女人は議場に入れないという件。私はこれは、この慣習そのものがおかしいと思っている。宮廷の細々とした雑事をこなしてくれているのは圧倒的に女性のほうが多いというのに、緊急時であっても女人であるという理由だけで議場にすら入れないというのは言語道断だ。だからこの慣習はおいおい廃止していきたいと思っているし、私はあの時貴女が議場に入って来ても何ら問題はなかったと思っている」

「で、では」

「結論として、貴女が責められるべき事項は一つもないし、私も大公妃も貴女に心から感謝している。また私の周りでも貴女の振る舞いが不作法だったなどとほざく阿呆は……失敬、一人もいないよ。むしろ皆、貴女の忠心に感服している。よって、処分などは一切なし。理解したかね?」

「殿下……」

 ああ、と全身から力が抜けていく。ソファから滑り落ちないように姿勢を維持するのがやっとだ。


 大公殿下のお声が一層柔らかく、優しくなった。

「どうかこれからも、大公妃を助けてやってくれ。私ではどうにも目が届かない部分も多い。年齢の近い貴方がいてくれることで、彼女はとても心強いと常々言っている。私も今回、貴女の心意気に感服した」

「勿体ないお言葉でございます、大公殿下。わたくしこそ、妃殿下のような方にお仕え出来て本当に幸せでございます。わたくしの力など微々たるものではございますが、全身全霊で日々精進いたします」

「ありがとう。よろしく頼む」


 ジュディスは今日ほど、王宮勤めをしていて良かったと思ったことはなかった。

 だが大公殿下のお話はそれで終わりではなかったのだ。

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