第7話 死刑宣告

 しばらくたって妃殿下の私室から出てきたレジーナがぼろぼろのジュディスに気づき、慌てて助け起こしてくれた。


「妃殿下は?」

 ジュディスが小声で尋ねると、レジーナはジュディスを安心させるように頷いて答えた。

「侍医の診察が終わって、今は眠っていらっしゃるわ。とりあえず貧血だそうよ。……殿下が付いておられるから、わたくし達は」


 少し開いた扉の隙間から、寝台の脇に座って妃殿下の額を撫でておられる大公殿下の姿が目に入った。レジーナが静かに扉を閉めた。

「お優しい方よね、大公殿下って」

「そうね。見た目は怖いけれど、実はとても思いやりのある方だわ。妃殿下には特にお優しいわね。……愛してらっしゃるのね」


 レジーナに助けられて侍女の控室に戻ると、ジュディスはハンカチを解いた。白い麻の地に血が滲んでいる。レジーナが顔をしかめた。

「この間から痣ができたり擦りむいたり、災難続きね、ジュディス」

 わざと明るく言いながら布と消毒薬を取り出し、てきぱきとジュディスの脚を消毒していく。薬が沁みてジュディスは悶絶した。


「いた、痛いい、レジーナ、もう少し優しくして」

 涙声で懇願するが、レジーナは聞いてくれない。


「これではしばらく靴は履けないわね……あーあ、ドレスもボロボロ」

「どっちにしろ靴は失くしてしまったからいいわよ。古い室内履きがあるからそれを使うわ。妃殿下には事情をお話しして不作法をお許し頂きましょう」

「そうね、妃殿下の危機をお知らせするために怪我したんですもの、きっと許して下さるわ」


 消毒薬を片づけようとしていたレジーナが血で汚れたハンカチの断片に気づいて尋ねた。


「ところでこのハンカチ、どうしたの?」

「ああ、これ? 大公殿下付きの近衛の方が助けて下さって、ご自分のハンカチを使って下さったの。ええと……確かバーデット少佐……と仰ったかしら」

「え! バーデット少佐って、バーデット少佐?」


 急に目を輝かせて食いついてきたレジーナにジュディスはたじろいだ。


「レジーナ、バーデット少佐をご存知なの?」

「もう、ジュディスは本当にそういうことに興味がないのね。バーデット少佐は伯爵家の御嫡男よ。それでもって、士官学校を首席で卒業されて、今は大公殿下付きの近衛でいらっしゃるわ」

「大公殿下付きなのは伺ったわ」

「……あのねジュディス、重要なのはそこじゃなくってよ。今、社交界の令嬢は皆バーデット様の花嫁になりたいと熱望しているの。眉目秀麗……とは言い難いお顔立ちだけれど、なぜかとてもご令嬢に人気があるのよ」

「へえ、そうなの? 確かにとても親切で感じの良い方だとは思ったけど、正直お顔がどうだったかなんて覚えてないわね」

「……もういいわ、ジュディス」


 レジーナは呆れたように肩をすくめて言った。ジュディスはそんなものかと思ったが、興味がないのだから仕方ない。それよりもハンカチを返すことと、靴が見つかるかのほうが心配だった。


 二日後、いつものように花籠を抱えて私室に入ってきたジュディスに、寝台に横たわった大公妃が声をかけられた。


「ジュディス、怪我の具合はどう? まだ痛む?」

「……問題ございません、妃殿下。お心遣いありがとうございます」

 だが大公妃には通用しなかった。

「嘘おっしゃい。爪が痛むのでしょう? そんな足で毎朝庭園まで出ていく必要はないのよ。わたくしのために……お願いだから無理をしないで頂戴」

 ジュディスの鼻の奥がつん、と痛くなった。

「勿体ないお言葉でございます、妃殿下。わたくしは丈夫だけが取り柄ですから、本当に何ともありませんわ。それより妃殿下こそ、もっとご自分を大切になさって下さいませ。妃殿下に何かありましたら、大公殿下が悲しまれます」

「そうね、殿下に叱られてしまったわ。無理なものは無理と言わなければ誰も気づいてくれないのだから、って」

「仰る通りでございますよ。でもわたくしももっとよく気をつけるべきでした。少し前からお顔の色が優れないなと思っておりましたのに……お赦し下さいませ」


 妃殿下が腕を伸ばして、ジュディスの手を握ると、ゆっくりと言われた。


「貴女のせいではないわ、ジュディス。それに貴女がすぐに知らせてくれたお蔭で、目が覚めたら殿下が傍にいて下さったのだもの。ありがとう、ジュディス。わたくしは幸せ者ね、こんなにも尽くしてくれる侍女がいてくれて」

「妃殿下……嬉しゅうございます」

「貴女の足が治ったら、新しい靴を作らなければね。ドレスも。わたくしから贈らせてもらうわ。楽しみにしていなさい……あ、あと、ハンカチも必要ね」


「ひ、妃殿下!おからかいにならないで下さいませ!」


 いたずらっぽく目を輝かせて笑う大公妃の姿に安堵して、ジュディスも朗らかに笑った。


 だがそんなほっこりと幸せな気分は、大公妃の寝室を出たところで粉々に打ち砕かれた。


「ジュディス、大公殿下がお呼びよ。すぐ私室に来るようにって」

「嘘……」


 全身から血が下がって行くのを感じる。大公殿下直々のお呼び出し……良くないことに決まっている。


 妃殿下の体調に気づかなかったこと?

 靴をすっ飛ばしながら王宮を全力疾走したこと?

 大事な会議に乱入しようとして護衛と騒ぎを起こしたこと?


「ダメだわ、どれ一つ、同情の余地なしだわ……」

 がっくりと肩を落として立ち尽くすジュディスにレジーナが追い打ちをかける。

「お急ぎらしいから、早く行って?……大丈夫よ。緊急事態だったのだから、いくらなんでも死罪にはならないわよ」

「止めてよ、レジーナ。死罪のほうがマシだわ。クビ? 追放?……ああどうしよう……そんなことになったら、うちはいよいよ破産だわ」

「そこ、今気にするところ? いいから早く行きなさいよ。殿下はお忙しいのよ」

「でもわたくし、こんな格好で……」


 レジーナは遂に面倒くさくなったのか、腰に手を当ててきっぱりと言った。


「い、い、か、ら。使いの方にジュディスは今靴が履けませんが、って伝えたら、そんなことはどうでもいいと仰ったから。さあ早く!」


(ああ、胃が痛い……)


 大公殿下の私室に続く廊下をとぼとぼと歩きながら、ジュディスは処刑場に引き出される死刑囚はこういう気持ちなんだろうかと考えていた。

 どう考えてもお叱りを受けるに決まっている……。


 ふと廊下の壁に貼られた鏡に映った自分の姿を見て、ジュディスは更に落ち込んだ。


 靴がなくて古い室内履きをつっかけ、ドレスも裾があんなではもう着られないから、仕方なく幾分着古した去年のドレスを引っ張り出して着ている。どう見ても輝くばかりにお美しい大公妃付きの侍女には相応しくない。

(もう少し考えて行動すれば良かった……きちんと手順を踏んで……もう遅いけれど……)


 大きくて重い樫の木でできた扉が、目の前に迫ってきた。

 ジュディスは大きな溜息を一つつくと、侍従に名を告げた。


「大公妃殿下付き侍女、ジュディス・メンデルでございます。大公殿下のお召しにより参上いたしました」

「入りなさい」


 間を空けず大公殿下の低い声がして、扉が開かれた。ジュディスは歩を進めた。こんな時でも爪は相変わらず痛い。

 できるだけ右足を引きずらないよう気をつけながら部屋に入り、応接椅子の脇で腰を折ってお辞儀をして頭を垂れた。


「ジュディス・メンデル嬢。呼び立ててすまないね」


 その声を聞くや否や、ジュディスは床に跪いて一気にまくし立てた。


「大公殿下、この度のわたくしの不手際、深く深くお詫び申し上げます。妃殿下のお体に気を配れなかったこと、王宮を裸足で走り回るという不作法、大切な会議の場に女の身で入室しようとしたこと、護衛の方と騒ぎを起こして妃殿下の評判に傷をつけたこと、すべてわたくしの不徳の致すところでございます」

 息を次いでなおも続ける。

「大公殿下のお怒り、ごもっともでございます。どのような処罰でもお受けいたします。どうか、どうか、いかようにも、殿下のお気のすむようになさって下さいませ……」


 ジュディスはまだ続けるつもりでいたが、唐突にそれは遮られた。大公殿下が声を上げて笑い始めたのだ。それも、大層な勢いで。


「……え?」


「まだ続くのか?」

 なおも笑いが止められず、喉の奥を鳴らしながら大公殿下が問われた。

「……はい?」

「だから、まだ続くのか? 貴女の演説は……ハハハハハ、これは傑作だ」

「え、あの」


 ひとしきり笑い終わった大公殿下が、真面目なお顔に戻ってジュディスのほうを向いた。

「失礼失礼。立って、掛けなさい」

「え、掛ける、とは……どちらに」

「決まってるだろう、そのソファだよ」

 当たり前のように殿下はご自分の向かいのソファを指差された。ジュディスは恐れおののいた。

「滅相もございません、侍女ごときが大公殿下の向かいに腰かけるなど……」

「いいから早く座りなさい。私は気が短い」


 ぴしゃりと言われて、仕方なくジュディスはソファの端に小さくなって座った。

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