第6話 バーデット少佐

「何の騒ぎだ?」


 ジュディスが振り向くと、一人の若い騎士が彼女を見下ろしていた。

「あ……」


 紺色に金ボタンの制服に、白のカラーと肩章。近衛の将校だ。

 近衛であれば、王宮内の秩序と安全を守ることが最大の責務であるはず。それを乱したのはジュディスだから、きっと咎められる……。


 しかしその将校はそんなジュディスにではなく、護衛に鋭い叱責を浴びせたのだった。


「女性に手を上げるとは、何たる不心得者! 貴殿らはそれでも王国の騎士か!? 」

「しかし、名乗りもせずいきなり大公殿下に取り次げと言われても……」

「この方は大公妃殿下の侍女だ。そんなことも知らないのか?」

 いきなり勢いがなくなった護衛に更に追い打ちの一言を浴びせるとその将校は振り向いてジュディスの前にしゃがみ込み、手を取った。


「立てますか? ご用件は私が伺いましょう」

「おそれ……いります……あの……」


 緊張がほぐれたのと息が上がっているのとで上手く言葉が出て来ない。だが彼は辛抱強く待っていてくれた。


「大丈夫ですよ。まず呼吸を整えましょう」

「はい……実は、さきほど大公妃殿下がお倒れになりまして……」


 それを聞いた瞬間、将校の顔色がさっと変わり、弾かれたように立ち上がった。

「すぐに大公殿下にお伝えして参ります。貴女はここで待っていて下さい。大丈夫だから、座って」

 そう言ってジュディスを廊下の端にあったスツールに座らせ、将校は参事室の中へ消えた。


(良かった……)


 安心するとどっと疲れが出てきて、ジュディスは壁にもたれかかった。


 一息つく間もなく参事室からドカドカと大きな足音が聞こえ、扉が今にも蹴破られそうな勢いで開くと血相を変えた大公殿下が大股で出て来られたが、ジュディスにはもう立ち上がってお辞儀をする気力も体力も残っていなかった。


「すぐに大公妃のところへ」


 殿下がジュディスに一瞥もくれず足早に宮に向かって下さったのが却って有難かった。

 不調法で申し訳ございません、大公殿下、今だけは見逃して下さいませ……とか、ああ、今日もいつもの三つ揃いをお召しなのですね、妃殿下にまた叱られますよ、殿下……とか、ジュディスはそんなことをぼんやりと考えていた。


「これを飲んで」


 自分に掛けられた声にジュディスが我に返ると、先ほどの将校らしき青年がしゃがみ込んでグラスを差し出している。

「……頂きます」

 掠れた声で受け取って一気に飲み干すと、ベルガモットの香油でほのかに香りを付けた冷たい水が喉に心地よかった。

「ご馳走様でした」

 空になったグラスを返しながら言うと、青年は心配そうに言った。


「まさかとは思いますが、大公妃の宮からここまで走っていらしたのですか?」

「はい、そうですが」

「あの距離を? 貴女お一人で? 靴はどうされたのです?」

「……あ」


 冷静に指摘されて下を向くと、ドレスの裾は泥だらけ、あちこち破れて靴は両方ともなく、素足は汚れて酷い靴擦れができ、右足の親指の爪は割れて出血していた。ジュディスは急に恥ずかしくなって照れ隠しにへへ、と笑った。


「靴は……どこかにあると思いますので、後で探しに参ります。それよりも、本当にありがとうございました。きちんとお礼を申し上げたいのですが、わたくし、妃殿下のところへ戻りませんと。失礼をお許し下さいませ、近衛士官様……あっ」


 痛む足をさすりながら立ち上がろうとしたジュディスだったが、暑い中息を切らして全速力で走ったダメージが相当来ていたようだ。ふにゃりと力が抜けて、またスツールに座り込んでしまった。


 すると思いがけないことが起こった。件の青年将校が跪くとジュディスの脚を持ち上げて自分の立てた膝に乗せたのだ。ジュディスは心臓が口から飛び出しそうになった。


「な、何をなさいます!?」

「この足では歩けないでしょう」


 そう言うと青年はポケットから白い麻のハンカチを取り出し、片方を口に咥えてビッと細く裂くと、ジュディスの血が滲む親指を覆った。


「あ、あの……」

 ジュディスは顔から火が出そうだった。当時の社会通念では、足は淑女が最も見せてはいけないもので、エロスの象徴だった。ましてや初対面の男性に素足に触れられるなど、嫁入り前の娘ならば卒倒してしまうほどのことだと言って良い。だが青年はお構いなしに、残りのハンカチでジュディスの汚れた足を丁寧に拭った。


「応急処置ですが、ないよりはましでしょう」

「あ、ありがとうございます……あの……何から何まで……」


 恥ずかしさに俯きながらジュディスが頭を下げ、おずおずと顔を上げると、青年の柔和な笑顔がそこにあった。彼は更にジュディスに手を貸して立ち上がらせると、自分の腕を曲げて差し出した。

「え、え?」

「大公妃の宮までお送りしましょう」

「と、とんでもない! これ以上ご迷惑をおかけする訳には……」


 ジュディスは顔の前で両手をブンブンと振って申し出を断ろうとしたが、青年は意にも留めない。

「いけません、そんな状態でお一人で宮まで歩いて戻ろうとしたら、辿り着くまでに日が暮れますよ。それに貴女をこのまま帰らせでもしたら、私が大公殿下に叱られます」

「ああ……」


 ジュディスは急に冷静になった。確かにここから妃殿下の私室までは、相当な距離がある。さっきは気が張っていたから何とも思わなかったが、この足であれだけ歩くのか、と思うと急に気力が萎えた。


 そんなジュディスの弱気を見透かしたように青年が笑った。

「ね? ですから、送らせて下さい。本当は貴女を抱き上げて宮まで運んで差し上げたいが、それでは流石に人目につくでしょう。ですから、腕をお貸しするだけで。それなら問題ないのでは?」

「!……それは、ご勘弁下さいませ!……では、お言葉に甘えさせて頂いて、腕だけお借りしても構わないでしょうか?」

「勿論ですよ。さあ、どうぞ」


 青年は改めて左腕を軽く曲げ、ジュディスはその腕を取った。ゆっくりと歩きながら青年はジュディスを安心させるように言った。

「自己紹介がまだでしたね。私は大公殿下付き近衛のバーデット少佐と申します。以後、お見知り置きを」

「大公妃様付侍女のジュディス・メンデルと申します。はじめまして、バーデット様」


「……貴女のことなら、ずっと前から知っていますよ」


「何か仰いました?」

 バーデットの返しが聞き取れなかったジュディスは訊き返したが、彼はいや、と言葉を濁して話題を変えた。


「靴はどのあたりで失くされたのか、心当たりはおありですか?」

「南翼の手前の回廊あたりまでは履いていたような記憶があるのですが、何度か躓いたり転んだりしているうちに、どこかへ行ってしまったようです」

 あの靴、まだあまり履いてなかったんだけれど、とジュディスはふと残念になった。実家の生活を支えているジュディスにとっては、靴を新調するのは中々に大きな出費なのだ。

「裸足でこの道を歩かせるのが心苦しい。さきほど見たところ、何カ所か擦りむかれていた。戻られたらきちんと消毒すること、いいですね」

「恐れ入ります……」


 近衛の制服を完璧に着こなした青年将校の腕を借りて足を引きずり、汚れたドレスの裾をからげて歩く自分は周りにどう映っているのだろう、とジュディスは恥ずかしかったが、残念ながらやはり一人では妃殿下のもとまで帰りつけそうになかった。


 普段の倍ぐらいの時間をかけてようやく妃殿下の私室の前までたどり着くとジュディスはバーデット少佐の腕を離し、深々とお辞儀をして感謝の言葉を述べた。

「本当に、いくらお礼を申し上げても足りませんわ、バーデット様。貴方がいて下さらなかったら今頃どうなっていたか……心から、感謝申し上げます」

 バーデットは居ずまいを正して答えた。

「私は自分が正しいと思うことをしたまでです、ジュディス嬢。どうかお気になさらず」

「いいえ、それではわたくしの気がすみませんわ。ハンカチも駄目にしてしまいましたし。新しくご用意してお返ししますから」

「いや、それには及び……」

 だが押し問答になりそうになった時、近衛の一人がバーデットに近づいた。

「少佐、こちらにいらしたのですか。隊長がお呼びです」

「分かった、すぐ行く。……メンデル子爵令嬢、ではこれで」

「あ、あの!」


 ジュディスがバーデットを引き留める間もなく、彼は一礼して去って行ってしまった。一人取り残されたジュディスは、急に足の痛みがぶり返してきて、そのままその場に座り込んでしまった。

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