第5話 ジュディス、走る

 少し前まで王室に悩みの種があるとしたら、国王夫妻がなかなか子供に恵まれないことだっただろう。


 王后陛下は国王陛下より二歳年上のしっかりとした方で、国王陛下とも非常に仲睦まじいが、五年前に第一王子を出産されてからご懐妊の報せが中々国民に届かなかった。

 陛下に愛妾を置かれるよう進言する一部の貴族もあったが、その度に陛下は激怒された。

 だが昨年、待望の第二子を授かられ、半年前、めでたく第二王子がお生まれになったのだ。王室、貴族はもとより、全国民にとっての慶事であった。


 今、王后陛下は育児に専念されながら体調の回復に努められているが、それが可能になったのはリリアーヌ大公妃の存在があったからに他ならない。


 元々地方の(決して裕福ではない、というよりもむしろ貧乏)伯爵令嬢であったリリアーヌ大公妃は、二年前、夫であるフィッツジェラルド大公の叙爵に伴い大公妃となると、すぐに国民から熱狂的な支持を得るようになった。

 美しい容姿、優雅な立ち居振る舞い、思いやりに溢れた人柄、決して王后陛下より前に出ない謙虚さ、それだけで戯曲が一、二本書けてしまいそうな大公殿下とのロマンスなど、どれを取っても無理なからん、というほどの人気ぶりである。

 また王后陛下ともまるで本当の姉妹のように仲が良く、その出産にあたって王后陛下の公務を代行されることに誰一人反対する人間はいなかった。もとより当の王后陛下が強く希望されたのだ。


「王后陛下は順調にご回復遊ばして、そろそろ少しづつ公務に復帰されるお考えのようでございます」


 ある日の午後、ジュディスは王后陛下付きの侍女からの書簡を受け取って大公妃に報告した。

「そう、良かったわ。でもあまりご無理をなさらないように国王陛下にご配慮をお願いしておきましょう」

「妃殿下も名代、お疲れ様でございました。ここのところ随分お忙しゅうございましたから、お疲れになりましたでしょう」

 労るように言葉をかけたジュディスに、大公妃はしみじみ答えた。

「本当に、王后陛下のご公務があれほど多いとは思わなかったわ。わたくしはまだまだね。もっとお二人の負担を減らせるよう努めなければ」

「何を仰います。王后陛下は大層心強かったと仰られているそうですよ。妃殿下のおかげで何の心配もなく出産に臨めたといつも言っておられると先程の侍女も申しておりました。この半年あまり、ご立派でございましたよ」

「だと良いのだけれど……」


 いつものようににこやかなご様子ではあるものの、何かが違う。


「妃殿下、お顔の色が優れないようですが、どこかお加減でも?」


 ジュディスの問いかけに、大公妃は努めて元気そうに答えた。

「暑くなってきたせいか、最近あまり食欲がないのよ。少し疲れたのかもしれないわね。でも大丈夫。王后陛下がご公務に復帰なされば、少しは余裕もできるでしょうから」

「ご無理なさらないで下さいませ。典医を呼びましょうか?」

「いいえ、大丈夫よ。それよりジュディスこそ、もう打ち身は良くなったの? 本当に驚いたわ、泥だらけになって王宮に戻って来るんですもの」

「ご心配をおかけして申し訳ございません。もうこの通り、痣も消えましたから」


 数日前、馬車に轢かれそうになって戻ってきたジュディスの姿をご覧になって、妃殿下は悲鳴を上げられた。

 そして事の顛末をお聞きになると、今にも泣き出しそうなお顔でこう仰ったのだ。


大事おおごとにならなくて本当に良かったわ、ジュディス……貴女にもしものことがあったら、わたくし、とても平静ではいられなくてよ」


 それを聞いた瞬間、不寝番の時に見てしまったものや、そのせいで心に抱えていたモヤモヤなど、どこかへ吹っ飛んでいってしまった。


 ああ、こんなにも素晴らしい方に対してわたくしはなんという不遜な気持ちを抱いてしまっていたのだろうと、ジュディスは自分を恥じた。

 しかも妃殿下はジュディスが事故に遭いそうになった場所を聞き出すとそのことを大公殿下にお話しになり、殿下はすぐさま馬車の危険な運転についての取り締まりを強化して下さったという。


 路地に倒れ込んだせいでジュディスの肩や腕には青痣がいくつかできていたが、もうすっかり綺麗に治っていた。

「そう、安心したわ」

「取り締まりも強化して下さったそうで、大公殿下にお礼申し上げます。後で聞いたのですけれど、あの通りは元々馬車の往来が激しくて事故が良く起きていたそうです」

「まあ、ではそれも殿下にお伝えしなければね。これからもわたくし達では気づかない街の細々したことを教えて頂戴」

「承知いたしました。ではわたくしは事務次官のところへ行って参ります。来週の孤児院の慰問について確認したいことがあるそうで」

「貴女に任せておけば何も問題はないわ。よろしく頼みます」


 だがジュディスがお辞儀をして妃殿下に背を向けて歩き出そうとしたその時、背後でカシャンという何かが落ちる音がした。


「妃殿下! どうなさいました!?」


 振り返ったジュディスは真っ青になった。妃殿下が椅子から崩れ落ちて、床に蹲っておられたのだ。

「大丈夫よ、だいじょう……」

 ジュディスが駆け寄って抱き起こすと、妃殿下は弱々しく呟き、そのまま両目を閉じられてしまった。ジュディスは叫んだ。

「誰か! 誰か早く! 妃殿下がお倒れに!」


 声を聞きつけて侍従が駆けつけ、妃殿下を支えて寝室へ移動して行った。血相を変えたジュディスはそこにいた侍従の一人を捕まえて噛み付かんばかりの勢いで問うた。


「大公殿下は、殿下は今どちらに!?」

「い、今でしたら、南翼の参事室で会議中かと……」

「南翼の参事室ね、ありがとう」


 そこまで聞くとジュディスは部屋を飛び出した。同僚のレジーナが背後から叫んだが、叫び返してそのまま走り出した。


「ジュディス、どこへ行くのよ!?」

「大公殿下にお知らせしなければ!」


 王宮の長い廊下を全速力でただ走る、走る、走る。

 何人もの貴婦人や貴族達とすれ違うが、今はいちいちお辞儀をしている余裕はない。作法などどうでもいい。

 途中で片方の靴が脱げて転びかけたが、構わず起き上がって裸足で走り続けた。

 大公妃の私室から南翼まではかなりの距離がある。参事室に辿り着く頃には息が上がって、全身に汗が噴き出していた。


 だがようやく参事室の前まで来たところで、ジュディスは護衛に止められてしまった。


「何事だ!」

「大公殿下に……火急の用が……妃殿下……」


 用件を伝えようとするが、ぜえぜえと息が上がって上手く言葉が出て来ない。無理に扉を突破しようとして護衛と押し問答になってしまった。


「中へ……入れて下さい……大公殿下に……」

「何を言っている!女人は参事室に入れないことは知っているはずだろう!身分と用件を言え!」

「おねが……中へ……」


 言いたいことは分かっているのに、呼吸が苦しいせいで言葉にできない。護衛に肩を押された弾みで床に尻餅をついてしまったその時、後ろからよく通る声がした。

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