第3話 お帰りなさいませ、殿下

「大公妃殿下。たった今正門から使いが参りまして、大公殿下が間もなくお戻りになるそうです」

「え?」


 翌日の午後、侯爵夫人の茶会に向かっていた大公妃と侍女の一行のもとに報せが入った。


「……すぐ参ります。レジーナ、すまないけれど侯爵夫人に少し遅れるとお伝えして。丁重にね」

「かしこまりました」

 ジュディスの同僚のレジーナがお辞儀をして去るのと同時に、大公妃は廊下を曲がった。


「お戻りは明後日だと思っていたのに」

「たぶんいつものように早馬を飛ばしていらしたのでしょう」


 困ったようなお口ぶりだが、大公妃の顔には喜びが滲み出ている。話しながらどんどん速足になって、ついには小走りに宮殿の階段を駆け下りる。

 貴婦人にはあり得ない振る舞いだが、それが許されてしまうのが大公妃の不思議なところだった。


 宮の玄関に息を切らした大公妃の一行が到着するのとほぼ時を同じくして、馬の蹄の音と男達の喧騒が聞こえてきて、ひときわ大きな人影が姿を現した。


「大公妃。今戻った」

「お帰りなさいませ、殿下」


 お辞儀もそこそこに馬から降りられた大公殿下に思わず走り寄って抱き着こうとした妃殿下だが、すんでのところで大公殿下に押しとどめられてしまう。

「いかん、途中の道が悪くて泥まみれになってしまった。貴女のドレスが汚れる」

「構いませんわ、そんなの」

「こらこら」


 殿下に諫められた妃殿下がむう、と口を尖らせる。これは殿下が宮に戻られた時に毎回繰り返されることで、もう側近達も慣れっこになっており、むしろ微笑ましいとニコニコと見守っている。


「どこか出かける最中だったのか」

「侯爵夫人のお茶会にお邪魔するところでしたの。でも少し遅れると伝えましたから。それより随分とお早いお戻りですわね」

「早く貴女の元に帰りたかったから急いで馬を飛ばしたのだよ。悠長に馬車に揺られてなどいられるか」


 愛馬の手綱を馬丁に渡した大公殿下が乗馬用の手袋を脱いだ手でするりと大公妃の頬を撫でられると、妃殿下はにっこりと微笑まれた。

「お食事は? 何か召し上がる?」

「軽いものがあれば準備してくれ。だがその前に湯に浸かりたい。こんな姿で兄上の元に報告に出向くわけにはいかん」

「ジュディス」

「伝えて参ります」

 既にジュディスはお辞儀を済ませて踵を返すところであった。


「港の様子はいかがでございました?」

 上着と帽子を脱いで従者に渡し、ようやく身軽になった大公殿下と妃殿下が廊下を私室へと歩きながら言葉を交わしている。

「ああ、なかなか伸びしろがありそうな場所だった。入り江の水深が思ったより浅いようで少しばかり掘る必要はあるが……」

 このような視察の内容をあれこれと夫婦で話し合われるのも、王族としては異例のことである。

 だが妃殿下は大公殿下が事業をされていた頃から帳簿の処理を任されていたという非常に聡明な方で、殿下のなさる商業や港運関連の話題にも、ごく普通に受け答えをなさるのだ。


 私室の前まで戻ると、ジュディスが待ち構えていてこう告げた。

「万事、整いましてございます」

「ああ、ありがとう……大公妃、後は自分でやるから貴女はお茶会に行きなさい」

「え、そんな」

 一瞬でも離れたくないという素振りを隠そうともなさらない妃殿下に、大公殿下は諭すように仰った。

「侯爵夫人をお待たせしているのだろう? 貴女は今、王后陛下の名代なのだから、弁えた行動を」

「はい……」


 寂しそうな妃殿下のお姿に、その場にいた侍女達もしゅん、となりかけた、次の瞬間。キャーッという嬌声が上がった。


 大公殿下が妃殿下の顎をつと上に向かせると、衆人環視の中堂々と熱い口づけを交わされたのだ。


「!!」

「後でな、大公妃」


 そして片手を軽く挙げられると、大公殿下は私室の扉の奥へ消えていった。


「み、皆静かになさい! このことは絶対にお茶会で話題にしてはなりませんよ! 良いですね!」


 真っ赤になった大公妃が釘を刺すが、侍女達は嫁入り前の若い娘らしく、キャアキャアとはしゃいで収拾がつかない。ジュディスは大公妃に囁いた。

「誰かが口を滑らしそうになったら、わたくしがお茶をぶちまけて皆様の気を逸らしますから、ご心配なく」

「頼んだわよ、ジュディス」

 大公妃も真剣な表情でジュディスに答えた。


(全く大公殿下ったら、あんなに恐ろしそうな方なのに、どうしてああも自由で気障キザで、痺れるほど恰好いいのかしら……)


 初めてお会いした時には震え上がるほど恐ろしかったのに、今では時々、見惚れてしまうことがある。ジュディスは他人の評価など当てにならないものだということを改めて嚙みしめていた。

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