第2話 押し掛け侍女
ジュディスは本人言うところの、『押しかけ侍女』である。
今を遡ること二年前、王国の宮廷に激震が走った。
国王陛下がご自身に腹違いの弟君がいることを明らかにされたのである。
しかもその弟君というのが、貴族の間では知らない者がいない平民の悪徳高利貸し、ローレンス・フィッツジェラルドだというのだ。
なんでも表向きの事業で得た莫大な資産を元手に、貴族を相手に秘密裏にあり得ない高利で金を貸し、その取り立ての苛烈さはまるで悪魔のようだと評される男である。
当時フィッツジェラルドから金を借りたことのない貴族など皆無に等しく、しかもその使い道のほとんどがあまりお褒め頂けない理由であったため、誰もが醜聞を恐れて宮廷は大騒ぎとなった。
だが国王陛下は英断を下された。弟君を大公に叙し、王家の直轄領を与え、王位継承権も復活された。
フィッツジェラルド大公はそれに対し、高利貸しの稼業から離れられるのは勿論のこと、ご自身で運営されていた海運業と造船業の事業の権利のそれぞれ半分を王家に献上して半国営事業とされたのだという。
肝心の貴族の借金についてはジュディスは詳しくは知らないが、どうやら国王陛下が『上手いことおやりになった』そうで、次第に宮廷には平安が戻っていた。
大公ご夫妻の叙爵の儀の末席にいたジュディスは、その時のことを今でもはっきりと覚えている。
大広間のドアが開き、ゆっくりと国王陛下の玉座に向かって歩を進める大公ご夫妻、正確に言えば妃殿下に、一瞬で目を奪われてしまったのだ。
世の中にこんなにもお美しい貴婦人がおられるとは、俄かには信じられなかった。
波打つ豊かな黒髪に、透き通るような白い肌と深い灰緑色の瞳。小柄でほっそりとした優美な体つきを白い宮廷服に包んだお姿を一生忘れることはないだろう。
ユージェニー王后陛下も大層お美しいと評判であらせられるが、リリアーヌ大公妃はまたそれと違った美しさで瞬く間に宮廷で評判となった。
花に例えるならば、王后陛下は咲き誇る白い薔薇で、大公妃殿下は開き始めた薄紅の芍薬のようだ、と貴族達は称した。
(この方にお仕えしたい……なんとしても、お側近くで……)
当時、侍女として出仕先を探していたジュディスは、ありとあらゆる
だが当日ジュディスは全身の震えを抑えきれないまま、大公妃の私室で腰を屈めて平伏していた。
なぜなら、大公妃殿下とのお顔合わせと伺っていたのに、扉が開いてみたらあろうことか、大公殿下もご同席されていたのだから。
冷酷で残忍で悪魔のようだと評される大公殿下の御前で粗相があったらどうしよう、その場で死罪になるかもしれない……お父様、お母様、やはりわたくしには過ぎた望みだったようです、とジュディスは己の無鉄砲さを今更ながら後悔した。
「顔をお上げになって、ジュディス・メンデル子爵令嬢」
その緊張をほぐすかのように聞こえてきたのは限りなく優しい大公妃殿下のお声だった。恐る恐る顔を上げ、お二人と目線を交わす。
「どうぞ立って、そちらへ掛けて?」
「と、とんでもないことでございます! 侍女風情が大公ご夫妻と同じお席につくなど、不遜の極みでございますっ!」
ジュディスは必死で辞退したが、妃殿下は明るく笑ってこう答えられた。
「あら、だって貴女はまだわたくしの侍女に決まった訳ではないでしょう? であれば、大切なお客様だわ。さあどうぞ、そんな姿勢のままでは足が痺れてしまいます」
「お、畏れ多いことでございます、妃殿下……それでは失礼いたします」
おずおずとソファの端に腰かけ、改めてお二人を近くで目にすると、やはり最初に襲ってきたのは大公殿下のお姿から感じる恐怖だった。
お噂通りの人並み外れた長身で、足が絨毯の外へはみ出してしまいそうだ。体つきも大きく、妃殿下が小柄なことも相まって、一層威圧感を感じる。
しかも王族とはとても思えないようなほとんど飾りのない黒の三つ揃いに短い革靴という、まるで平民の頃のまま、商人のような服装をなさっておられることにも驚かされた。
お顔には銀灰色の髪が無造作にかかり、瞳はほんの少し紫みを帯びた濃い灰色で、やはり国王陛下の肖像画と何となく似ておられるような気もする。
だが何よりも目を奪われるのは、左頬の大きな傷痕。赤黒く盛り上がり、縫われた痕だろうか、横向きにもいくつか筋が入るそれは、まさに悪魔と評されるに相応しい恐ろしさであった。
ジュディスは意識していなかったのであろうが、やはり視線がそこで止まってしまっていたらしい。
「私のこの傷が恐ろしいようだな、メンデル子爵令嬢?」
不意に大公殿下の低く鋭い声が聞こえてきて、文字通りジュディスは飛び上がった。心臓が早鐘のように波打つ。
「も、申し訳ございません! 大公殿下に大変なご無礼を……お許し下さい!」
(ああ、やってしまったわ、間違いなく死罪ね……お父様お母様、先立つ不孝をお許し下さい……)
頭がテーブルにぶつかる勢いで身体を真っ二つに折りたたんで謝罪の言葉を述べながらジュディスは最悪の事態を覚悟したが、意外にも返ってきたのは大公殿下の静かで落ち着いたお声だった。
「顔を上げなさい。咎めた訳ではない。……ただ大公妃の侍女の職に就きたいならば、この顔には慣れてもらう必要があるのでね」
血の気の引いた顔を上げると、大公殿下は何事もなかったかのようにティーカップを持ち上げ、お茶を口に運ばれていた。妃殿下がもう、といった口調でお続けになる。
「殿下、そういう仰り方は良くないといつも申し上げていますでしょう。ですから殿下はいつも誤解されるのですわ。ほら、怯えていらっしゃるじゃないの」
「私は元々こういう話し方だ」
「で、す、か、ら、それがよろしくありませんの。それにもう商会のお仕事は引退されたのですから、そのお召し物はお止め下さいませ。王宮内で目立って仕方ありませんわ」
「これが動きやすいんだよ。良いではないか着るものぐらい……」
「いいえ、いけません。わたくしが国王陛下から叱られます」
「あ、あの……」
ジュディスはこの場を何とか収めようと口を開いた。本来なら身分の低い者が許可を得ずに発言するなど許されないことではあるが、このままだといつまでたっても終わりそうになかったからだ。
大公妃がお気づきになって、きまり悪そうな口ぶりで仰った。
「あ……ごめんなさい、お話の途中でしたわね。ええと、ジュディス・メンデル子爵令嬢、お年は十七歳、で間違いないかしら?」
「はい、相違ございません。大公殿下、妃殿下、お目通りが叶い光栄でございます」
仕切り直しのようにジュディスは改めて頭を下げた。
が、その時、所在なさげに腕を組んで目を閉じられていた大公殿下の片方の眉がぴくりと動いたのに気付いて、ジュディスはまたしても心臓がどくんと波打った。
「……メンデル?……メンデル……」
「どうかなさいまして?」
記憶の糸を辿るように視線を泳がせて呟く大公殿下の様子に妃殿下が怪訝そうに尋ねられる。が、殿下は軽く手を振ってその場を収められた。
「いや、何でもない。続けて」
ジュディスはほっと胸を撫で下ろした。
(よかった、殿下はあのことはご存知ないようだわ……)
「そう……ジュディス嬢、お訊きしたいのだけど」
「はい、何なりと」
「わたくし、あまり多くの侍女を置くつもりはありませんの。ですからわたくしに仕えて頂く方は毎日とてもお忙しくなると思うのだけれど、貴女は大丈夫かしら?」
ジュディスは胸を張って答えた。
「はい、勿論でございます! 誠心誠意、お仕え申し上げます。何なりとお申し付け下さいませ!」
言った瞬間、はしたない振る舞いだったかと心配になったが、大公妃はほほほ、と朗らかにお笑いになった。
「頼もしいこと。……ではジュディス嬢、なぜわたくしの侍女になろうと? わたくしのことはご存知でしょう。まだまだ宮廷には不慣れですし、他の方と違って実家の後ろ盾などもありません。ですから、わたくしに仕える侍女職は大変な仕事だと思いますよ。何か理由がおありなのかしら?」
そのお声に少しだが不安が混じっていることにジュディスは気づいた。言葉を選びながら答える。
「あの、わたくし、妃殿下が大層刺繍がお得意だと耳にしました……わたくし、そういった女性らしい嗜みがとても苦手なものですから、どうか近くで学ばせて頂けないかと思いまして」
これは真実だった。
数日前、ジュディスは女官達がこんな会話をしているところに通りかかったのだ。
「大公ご夫妻の身の周りのお品を拝見したのだけど、どれもこれもそりゃあもう刺繍が素晴らしいのよ。見たこともないようなデザインと色使いで」
「まあ、そうなの? それで?」
「それで私、無礼を承知でどこでお誂えになったのかお訊きしたの。そしたらなんと、全部妃殿下が御自らお刺しになったのですって。もう驚いたわ」
それを聞いた大公妃の顔がぱあっと輝いた。
「まあ、光栄だわ。そういうお方なら大歓迎よ。でも、わたくしの一存ですぐには決められないし……どう思われます、殿下?」
「貴女が良いと思う人になさい。ご婦人同士のあれやこれやは私にはわからん。貴女の見る目で選べば間違いなかろう」
相変わらず無関心そうな大公のご様子に妃殿下は一瞬、ふん、という顔をなさってから、すぐジュディスに向かってにこやかに言葉をかけられた。
「それでは、結果は追って連絡しますわ。お時間を取って下さってありがとう、ジュディス・メンデル子爵令嬢。気を付けてお帰りになってね。お話しできて楽しかったわ」
「勿体ないお言葉でございます、妃殿下。それでは失礼いたします。大公殿下も、本日は誠にありがとうございました」
「ご機嫌よう」
ジュディスは立ち上がって深々とお辞儀をすると、どこかふわふわと熱に浮かされたような心持ちで退出したのだった。
一週間後、王室の紋章で封のされた手紙がジュディスの元に届いた。採用であった。準備が整い次第出仕されたし、と記載された手紙と、同封された支度金の小切手を見て、ジュディスは飛び上がって狂喜した。
ただ一つだけ、喜んでくれるかと思った父の顔が、何となく浮かない表情であったことだけは気になったのだが……
それから二年、文字通りジュディスは寝食を惜しんで大公妃に仕え、揺るぎない信頼と筆頭侍女としての職位を得るに至ったのだった。
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