筆頭侍女ジュディス 〜縁は異なもの味なもの〜
碓氷シモン
第1話 王宮に咲く花
王宮の朝は早い。
日の出前から厨房のパン窯には火が入れられ、料理人達は忙しなく立ち働く。
また王族付きの侍女や侍従達は本日の予定について綿密な打ち合わせを行い、主人の行動の全てを完全に頭に叩き込んでおかねばならない。一日のうちで最も緊張する時間帯だ。
ジュディスは小一時間に及ぶ細々とした関係各所との擦り合わせを何とか終え、籠を手に庭園へとやって来たところだった。
(ふう、今日も忙しくなりそうね……あら、もう矢車草が咲いているわ。妃殿下がお好きな花だから、これは頂いていきましょう)
彼女の名はジュディス・メンデル。ローレンス・フィッツジェラルド大公の妃、リリアーヌ付きの筆頭侍女である。
ジュディスの職務は非常に多岐に渡るものであったが、個人的に日課としているのが大公妃の私室に飾る花を庭園から摘んでくることであった。
ただでさえ忙しい早朝のこの時間、しかも雨の日も雪の日も一日たりとも欠かさず続けるのは確かに骨が折れることもあったが、この毎日の花を妃殿下はいたく喜び、折に触れジュディスのセンスを褒めて下さるのだから、何ということはない。
今まさに王都は初夏を迎え、庭園には溢れんばかりの花々が咲き誇っている。ジュディスが下げる籠はたちまち花々で一杯になった。
「これぐらいかしらね。いけない、長居してしまったわ。早く戻らないと」
急いで宮に戻り、大公妃の私室の扉をノックして声をかける。
「妃殿下、朝でございます。お目覚めでしょうか?」
「……う~ん……ジュディス……?……どうぞ入って……」
明らかに半分まだ夢うつつな声を聞きながら、静かにドアを開け、部屋に入る。中央に置かれた豪華な寝台に近づき、明るく声をかけた。
「おはようございます、妃殿下。起きて下さいませ」
「……いやよ……もう少し寝かせて……ふう……」
お側に仕えるようになってから知ったのが、大公妃は意外に朝がお得意でないということだった。
普段はあれほど凛として清廉な佇まいの方が、朝のこの時間だけは年端もいかない少女のように駄々をこねられる。だが、そのお姿がまた何とも言えずお可愛らしい。
「妃殿下。お疲れなのは承知しておりますが、もう8時でございますよ」
「……あと5分だけ……ね、ジュディス?」
甘えるようにモゾモゾと寝台の上で動き回るお姿に思わず頬を緩めながら、それでもジュディスは諦めず、膝を屈めて花籠を妃殿下の顔の前にかざした。
「わたくしをあまり困らせないで下さいませ、妃殿下。今日も花を摘んで参りましたよ」
「……良い香りね、ジュディス……分かったわよ、起きればいいんでしょ」
明らかに片目がまだ開いていない状態でしぶしぶリリアーヌは半身を起こし、ぼーっとした顔でジュディスを見つめた。
「おはようございます、妃殿下」
「おはよう、ジュディス……いいお天気ね……」
「ええ、晴れてようございましたわ。本日は市庁舎での式典がございますでしょう、雨でしたら移動が大変でございますもの」
「そうだったかしら……」
やれやれ、とジュディスはいつものことながら思った。どう考えても、妃殿下はまだ半分は夢の中にいらっしゃるようだ。
するとそんなジュディスの頭の中を見透かしたようにリリアーヌが呟いた。
「わたくしのこんな姿を知っているのは、大公殿下と貴女だけよ、ジュディス……誰にも言わないでね」
「神に誓って口外いたしません、妃殿下。さ、湯あみの支度が整っております。お召し替えが済んだら朝食にいたしましょう」
まだ少しおぼつかない足で浴室に消えて行くリリアーヌの姿を見送って、ジュディスは密かに身もだえした。
(ああもう、妃殿下、何てお可愛らしいのでしょう……!)
「以上が本日のご予定となります、妃殿下」
「承知しました。皆、本日も宜しく」
テラスで朝食を取っている大公妃の前で、侍女たちはそろって腰を屈めてお辞儀をした。
(先程までのお姿からのこの変わりよう……いつもながら大したものですわ)
寝起きの姿からは完全に別人である。今目の前にいるリリアーヌは淡いブルーのドレスを身に纏い、寝乱れていた髪は豊かに波打ってゆったりと纏められ、バラ色の頬に静かな笑みをたたえながら優雅に苺を口に運ばれている。灰緑色の美しい瞳には光が宿り、吸い込まれるようだ。
「大公殿下のお戻りは三日後だったわね」
ふと思い出したようにリリアーヌから質問され、ジュディスは我に返った。
「ご予定ではそうなっておりますが、大公殿下のことですから、どうなりますことやら……」
「困った人だこと。変更があったら、真っ先にわたくしに知らせて下さいね、ジュディス」
「勿論でございます」
フィッツジェラルド大公殿下は王の腹違いの弟君にあたり、王位継承順位は現在第3位である。半年前まで第2位であらせられたが、国王ご夫妻に待望の第二子となる王子が誕生したため一つ下がられた。もっとも大公ご自身は王位など全くご興味がないどころか、くれると言われても絶対にいらんと公言されて憚らない。
殿下は主に商工業や金融といった王国の経済面を任せられており、非常にご多忙である。今も一週間前から北部の港の視察にお出ましだ。
「お寂しゅうございますか、妃殿下」
ジュディスが声をかけると、リリアーヌははっとした顔になり、取り繕うように慌てて言った。
「な、何を言うのジュディス。わたくしがいつ寂しいなどと申しました?」
「お顔に書いてございます」
「ま、まあ! 失礼ねジュディス!」
表向きは怒った声だが、明らかに図星を突かれて赤くなってぷいっと顔を背けるリリアーヌの姿に、またしてもジュディスは悶絶してしまう。
(妃殿下、それは反則でございます……お可愛らしすぎて、ジュディスは困ってしまいます……)
だがなんとか平静を装って会話を続けた。
「きっといつものように大急ぎでお戻りになられますわ。妃殿下が首を長くしてお待ちなことは大公殿下が一番良くお分りでございましょうから」
「だと良いわね……」
そうして朝食が終わり、少し休憩を取られると私室に戻る妃殿下の後ろ姿を見送りながら、ジュディスはお二人に初めてお目通りした日のことをまるで昨日のことのように思い出すのだった。
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