閑話 水町詩音は影を見る
水町詩音は喫茶店のオーナーの父、そして元歌手で今は専業主婦をやっている母がいた。
詩音は、父の喫茶店にある足が床につかない高さの回る椅子に座りながら母と一緒に歌う、そんな時間が好きだ。
そして歌うことが好きで、元気で笑顔の可愛い女の子だった。
学校では特段仲がいいと言える子は居なかったが、仲が悪い子もいないクラスでは中間的立ち位置にいた。
学習面もそこそこであったが、詩音の歌についてはクラスの皆も、音楽の先生からも褒められていた。
他は平凡でも詩音は大好きな歌が褒められるというだけで嬉しかったのだ。
◇
そんな、幸せな日常が壊れたのは詩音が小学6年生に上がった頃であった。
詩音の大好きな母親がとある病を原因として亡くなったのである。
これをきっかけに詩音は1度不登校のような状況に陥り、短かったその髪もいつの間にか視界を塞ぐほどにまで伸ばしていた。
父親も同様に心神喪失といった状態ではあったものの、このまま詩音と共に悲しみにくれることは最愛の存在である
結果的に詩音は再び学校に通うようにはなったがその姿に以前ような明るさはなく、
周囲のクラスメイトのほとんどもそんな詩音と積極的に関わろうとする者は居なかった。
───たった一人を除いて。
再び学校に通い始めた詩音を気にかけ話しかけてくれた1人の少女 、その人物の名前は加納恵と言った。
恵とは小学校3年生年生と5、6年生の頃に同じクラスになっており、詩音の通う小学校で現在の生徒会長を務めている人物であった。
だがクラスが同じだからといってこれといった交流がある訳でも無ければ、恵は容姿も頭も良いと才色兼備を具現化したような完璧な人物。
そんな恵がなぜ自分に関わるのかが当時の詩音には理解し難いことだった。
2人組や班を作ることがあれば毎回恵から誘ってくれたおかげで寂しい思いをすることも少なかった。
そして何より、恵という人物をきっかけに今まで詩音に自分から話しかける人物が再び現れたのである。
そうして恵を家に呼ぶ程に関係が進展した頃にあの詩音はふと、あの時に「なぜ自分と仲良くしてくれたのか」という疑問をぶつけてみた。
対する恵からの答えは「消えてしまいそうだったから」というもので、当時の自分はそう思われる程にひどい様子をしていたのか、と詩音は思った。
それから、恵と同じ中学校に通うようになり声も少し大人びて来た時に詩音の人生における《転機》が訪れた。
それは中学生活初の合唱祭であった。
詩音のクラス発表の曲は1年生では変わったことに、
ソロで歌う場面があった。
元からあった訳ではなくクラスのお調子者の男子がアレンジとしてソロを入れる提案をしたのがキッカケであったが、その意見を音楽教師が実現させてしまったのだ。
結果的に提案した男子がソロパートをやることになり、本番に向けた練習が始まったのだが不運な事にその男子は風邪にかかり、喉もやられてしまった。
代わりとしてソロをやる人物を決めることになったがそんな目立つ役割をやりたがる者などおらず、行き詰まった所で恵が手を挙げ───といった所で詩音は自ら手を挙げ、「私がやります」と申し出た。
もちろん、詩音も目立ちたくなかったが友達である恵の役に立ちたいという考えを念頭に手を挙げてしまったのだ。
そうしてソロでの練習を始めるが、ソロパートは一人だけで会場全体に届くような大きな声を求められるのだ。
全体に合わせていた時は気づかなかったが詩音単体の声は大きくはなかったのだ。
それは単純に、恥ずかしいというのもあるがそれ以上に母を亡くして以来大きな声を出す機会がなかったからだ。
それからは本番までの期間、ソロパートの練習を重ね少しでも大きな声を出せるように心掛けた。
前日に至る頃には当初よりも大きな声が出るようになり、音楽教師からも「これならきっと大丈夫よ」なんて言葉もあったが本番ではもっと広い空間で歌うことを考えると詩音は不安でしょうがなかった。
そうして本番の日が訪れる訳だが緊張感は言葉にならないほどに凄いもので、各生徒の親がいるのはもちろん、学校の職員がカメラも構えている。
当然だが詩音の父も居るのだろう。
詩音のクラスの発表は1年生最後の順番で、最初にやるよりは幾分かマシだがそれでもプレッシャーは強い部類だ。
他のクラスの発表を聴く間も気が気ではなかった。
そうして次が自分達のクラスとなった時に詩音達はステージの裏に移動し、待機をする。
詩音が心臓の鼓動が早くなるのを感じていると、ふと家を出る前に言われた父親の言葉を思い出した。
「歌う時は髪を前に分けなさい」
今の詩音の髪は前後ろ共に長く、前髪で目は隠れてしまっている。
これは発表の場で目が隠れているのはあまり褒められたことでは無いということで、父から告げられた言葉だ。
ただでさえ恥ずかしいのに髪を分けて顔を出すなんて、そう思いたいが父の言い分も分かるため直前に髪を分けて視界を良好にする。
───そんな事をしていると1つ前のクラスの発表が終わり周りから拍手の歓声が巻き起こるのが聞こえてきた。
ついに詩音達の発表の順番になり、綺麗に列に別れて進む。
詩音は1番前の列だ。
綺麗に整列すると指揮を取る生徒が手を上げる。
そして指揮の合図に従い曲が始まった。
『〜〜♪』
出だしも問題なく、美しいピアノの音に合わせ複数に重なった声が会場に響く。
そうして2番まで終わり間奏に入ると遂に詩音の出番。
同じ列の人よりも1歩前に出るとソロパートの出だしのタイミングを待つ。
『〜〜♪』
ピアノに合わせて詩音のソロパートが始まった。
……
風の音すらも聞こえないような会場で詩音の歌声だけが響く。
先程まではクラスメイトの声と混ざっていた音が1つの、詩音の音が。
「〜〜♪」歌う詩音に先程まであった
この時、詩音は自覚していなかったがそれは練習の時よりずっと大きな声であり、間違いなく会場全体に響いていただろう。
『〜〜♪♪』
夢中で歌っているといつの間にかソロパートが終わり、周りの音も詩音に合流して再び1つの合唱が始まった。
◇
───そうして詩音達の発表が終わるとちょっとした休憩タイムに入った。
『ふぅー緊張したぁ』
『ちゃんと歌えて良かった』
『ピアノ間違えなくてよかったぁ』
休憩に入るとクラスメイト達が抑え目のトーンで会話をする。
それは緊張から開放された安堵の内容が多くであったが詩音にはそんな内容は耳に入らず、頭の中ではソロパートの時の自分の声が反響していた。
それは詩音は声が変わって初めて自分の本当の歌声を自覚したのが理由だ。
この広く静かな空間で、1人で歌ったからこそ気づくことが出来た自分の歌声。
───それは、亡き母を彷彿とさせるものであり、詩音自身もソロパートを歌っている最中にハッキリとした視界で、自分に、自分自身の歌に間違いなく母の影を見たのだ。
「詩音のソロパート凄く綺麗だった」
詩音の意識を再び会場に戻したのは恵からの称賛だった。
久しぶりの歌に対する称賛、それも1番の友達からの。
この時の感情を詩音が今後忘れることは無いのだろう。
そうして長かった合唱祭が終わり家に帰宅した詩音を最初に待ち受けていたのは父からの抱擁だった。
「本当に良く頑張ったね」
抱きしめられながら父からそんな事を告げられる。
それに詩音も満更でもなさそうに笑顔になる。
父が離れると詩音は昔抱いていた感情を言葉にした。
「私、お母さんみたいな歌手になりたい」
そんな詩音の言葉に父が驚くことはなく、むしろ安心した様な顔で頷いた。
この日をきっかけとして詩音は時に父の喫茶店で歌うようになっていた。
それは一人で歌うよりも誰かに聞いてもらってその感想が欲しいというのもあるし、小さい頃から優しくしてくれた常連のお客さんも求めてくれたからだ。
今日も詩音は歌う時にだけ長い髪を分けて歌う。
自分が歌っている時に母を見るために───
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