絵空事

@ryuma081111

第1話



男が傘を放り投げた。機嫌の悪い空へと目を向ける。雨が顔を打った。あの大きな雲もきっと彼を見下している。

びしょ濡れになったブラウンのジャケットと荒んだ革靴が、憂鬱な午後へのドレスコードだ。



見ての通り、彼は立派な会社員。

雨を享受する、寛容な会社員。私は水除けを忘れてしまったな、と思いながら彼に駆け寄る。

「何か辛いことがあったの? 」

振り返って私の顔を見る。彼は驚いた顔をしている。

「何もないよ。ただ空を慰めただけさ」

私は空を見上げた。

「雨じゃないの。大雨」

「心が晴れ模様ならいつだって天は冴えてるものなんだよ」

顎に手を当て、へぇと納得するそぶりを彼に見せた。

「そうなんだ」

「そうなんだよ。おにいさんはいつも笑ってるんだ」

『おにいさん』と言いつつも、その顔は酷くやつれて目の下にはクマができている。とても青年には見えない。そのくせちゃんと満点の笑顔なもんだから気味が悪い。

「じゃあさ、どうせなら私のお願いを聞いてよ」

彼がしばらく唖然として、そのうち顔をクシャッとさせた。

そして「何についての『じゃあさ』で、何についての『どうせ』なのかな」と笑って言った。


しかし、お構いなしに私はお願い事を口に出した。

「私のヒーローになってよ」

一瞬の時間の後、彼の顔に暗雲が立ち込めた。するとのっそりと立ち上がって、黙って何処かへ踵を返してしまった。どこかに行くの?と声をかけるも彼はすでに見当たらなかった。



私は大雨の中、水色の傘を拾った。彼の傘だ。ひとりぼっちで相合傘をした気になって動く趣を見せない足を引きずって帰った。


次の日は晴れていた。傘を、返さなければ。


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起きたら胸が痛かった。心とかじゃなく、左側が激しく痛んだ。理由は知らない。どうせ大したことはないのだ。病院に行く気にもならない。が、これをネタにどうにか休めないだろうかとか、崇高な心情を紺色のコートのポケットに突っ込んで、自宅を後にした。


今日は空の気分が一転して、見上げる人間達に笑顔を振り撒いていた。暑い。


フックにかかる魚のように吊り革に揺られる。冷房が汗を冷やして悪寒の類を感じた。車窓の外を並走する貨物列車になんとなく身を投げてしまいたくなる。


会社の最寄駅につき、改札を通った。通勤経路は短く、商店街の脇の道を通って公園をすぎるともう到着する。


いつも通る道をいつもの如く歩いて行く。しかしどうしてだろう。何を思い立ったのか知らないが、見知らぬ道につま先を向けてしまった。きっと暑かったからだ。


コーヒーショップに足を止める。定時はとうに始まっていた。僕は締まったネクタイの紐を緩めた。


窓際に座り、今買ったレギュラーサイズのアイスコーヒーを一口。窓の外を見ていた。


あそこで笑って会話を嗜んでる老婦人だって、たまに本気で泣いているんだな。と更けながら思っていると存外、無断欠勤も気分がいい。全部、全部忘れられるからだ。


────────────────────


夏の晴れた午前中を目一杯のシロップをかき混ぜたアイスティで飾るのは気分がいい。太陽の下、食っちゃべるおばちゃんもきっと上機嫌だ。

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