第10話 願い
8月25日、ようやく陽子は目を覚ました。病院に泊まり込みで見守っていた私はすぐに担当医を呼んで彼女の容態を見てもらった。結果は変わらない。これ以上彼女が生きながらえることは不可能なようだ。目を覚ました日の陽子はしゃべる気力もないようで、意識を保つのでやっとだった。そばにいた私に手を伸ばしてきたから、優しく握ってあげると、安心したような顔で眠りについた。
できるだけそばにいてあげて欲しい。担当医の人にそう頼まれた。言われなくともそのつもりだ。彼女の命が終わるとき、私の命も終わるのだから。
8月26日、この日の陽子はずっと眠っていた。こうして目を閉じたまま静かに息を引き取ってしまうのではないか。それならせめて最後に何か話したいと思ってしまった。そういえば、一緒に死にたいと直接言葉にして伝えてはいなかったな。何となく仄めかすようなことはしたし、陽子も何となくわかっていると思うけど、ちゃんと陽子に頷いてもらってから死にたい。天国で会った時にあれこれ言われるのも嫌だから。
8月27日、陽子の声を聞けた。意識が朦朧としている中で、か細い声で何かを伝えようとしている。でも、陽子はしゃべっているつもりでも、彼女の口から音として出てきていないのだろう。途切れ途切れの言葉からは意図を読み取れない。
「大丈夫。焦らなくても私はずっとここにいるから」
陽子が倒れた日からずっと病院にいることをまだ伝えていなかった。無理にでも話そうとしているのは、私がいるうちに伝えたいことがあるのだろう。目を覚ましたらいつでも私がいるということを教えると、陽子は無理に口を動かすことをやめて、代わりに手を差し出した。彼女の要望に応えて、この前と同じように優しく手を握った。
陽子は私の温度にすがるように弱々しい力で手を握っている。石膏像のように白く、熱を失った彼女の手。苦しみが少しでも和らぐように、両手で包み込んで私の熱を分け与える。彼女の苦しみを肩代わりできたらいいのに。せめて安らかに死んでほしい私は、ないものねだりばかりしてしまう。
8月28日、陽子の意識がはっきりとしてきた。ただ、身体はもう限界のようだ。ベッドから身体を起こすこともできず、彼女はじっと天井を見つめていた。私は彼女のベッドの隣に椅子を移動させて、昨日と同じように彼女の手を握っている。昨日よりは少し温かいだろうか。それに私が少しでも貢献できていたのならいいな。
「見慣れた天井も、あと数回でお別れだと思うと寂しいね」
「……そうとは限らないでしょ」
「気を遣わなくていいよ。自分の命の終わりくらい分かってる」
自分の命の終わり。それはどんな感覚なのだろうか。まだ続く命を自分の手で断とうとしている私には分からない話だ。
「それってどんなかんじなの」
「良いものではないよ。君にもいつかわかるさ」
「へぇ……でも、そうはいかなさそうなの」
意外なことに陽子は私がこの後も一人で生き続けると思っているようだ。そんなことできる気力も希望も持っていないのに。陽子の手は握ったまま、寝転ぶ彼女に体を向ける。見下ろすような形で彼女と目が合うと、不安定だった眼の光が私を中心にして安定する。私のことがちゃんと見えているようで安心した。
「ねぇ、私も一緒に死んでいい?」
「……なぜだい」
陽子の表情が歪む。海で倒れた時のような痛みで歪む顔とはまた違う、心を無遠慮に締め付けられたような顔。私が死ぬことを拒絶するかのような反応は、私が想定していないものだった。
「私にはもうこの世界で生きる価値が分からない。無意味に生きて苦しみ続けるくらいなら、私は陽子と終わりたい。……分かってるでしょ。私が死にたがりだって、終わるために陽子と一緒に居たんだって。それとも、全部忘れちゃったの?」
「忘れてなんかない。忘れるわけないだろ」
「じゃあなんで、そんな顔するの」
陽子は悲しい目をしていた。悲しい目で私を見つめていた。どうして。初めて出会ってから一度も私の死を否定したことなんてなかったじゃない。なんで今になって、ようやく終われると思った時になってそんな顔をするの。
「最初は君が死のうと死ななかろうとどうでもよかった。それは君が選ぶことだから、こんなところにずっと閉じこもっていただけの私がとやかく言えることじゃないと思ってた。でも、君と一緒に時間を過ごしていくうちに、君の事を知るにつれて、君に生きて欲しいと思うようになったんだ」
「生きて欲しいって、どうして……」
「君が大切だから」
もう体に力は残されていないはずなのに、私を見つめる彼女の瞳には私の心を揺るがすほどの意志が込められていた。大切だなんて言葉にされたのは、両親が死んで以来だろうか。
「私が大切なら、私の願いを叶えてよ」
「大切だからこそ君の願いは叶えられない」
「私はもう終わりたいの! 死にたい人間に生きて欲しいって、そんなの良心でも愛でもない、ただのエゴよ!」
「そうだね」
やめて。そんなこと言わないで。私が死を選ぶことを否定しないで。こんなおかしい世界で生きることを願わないで。
「ふふっ、やっぱり君も変わったね」
「へ……?」
変わった。そういえば海で倒れた時にそんなことを言っていた。陽子は私と出会った時から大きく変わったけど、私の何が変わったというのだろうか。この世界への絶望も、死を願う心も、生きることへの諦めも、何も変わっていないのに。
「君はいつから死ぬことに私の許可が必要になったんだい? 私は君に生きて欲しいけれど、君が今ここで死のうとしても止める力なんてないんだよ」
「そ……それは」
「私と出会ったばかりの君なら何を言われようと動揺しなかっただろう。でも、今の君は取り乱している。その理由は……少しだけ、己惚れてもいいということかな」
陽子と出会ったばかりのころの私は死の安寧を求めていた。終わりの時に陽子の隣にいる。私が求めてたのはそれだけだった。でも、何度も陽子と話すにつれて、気付かないうちに少しずつ私の中で大切にしたいものが変わっていった。
陽子の心に触れて、陽子の人生を知って、陽子に幸せを届けたいと思った。それが私の死の安寧に繋がるなんて思っていたけど、それもいつしか純粋に彼女の幸福を想う心に変わっていった。
そうか、私は……
「君は私の願いを無碍にできないんだろう」
自分の死なんかよりも、陽子の想いのほうが大事になっていたんだ。
だから私はこんなにも動揺しているんだ。陽子の願いなら、私は死ぬ道を断ててしまうから。死にたい気持ちは変わっていない。でも、優先順位が変わってしまった私は、道を断たれてしまえば生きることしかできなくなる。この世界に価値がないと思っているのは変わりないのに。
「君の言う通り、これは私のエゴだ。生きた先に幸せがあることなんて保証できない。でも、私は君に俯いたまま死んでほしくないんだ」
「俯いたまま……」
俯く。両親が死んだあの日から、私はこの世界に絶望して後ろ向きに生きてきた。胸の内に死にたいという願望を抱えて。そういう意味で、私は俯きながら生きてきたのだろう。
「向日葵は太陽を見上げるものだろう?」
「……いまさら私にそんな生き方むりよ」
「私も無理だと思ってたよ。このまま何も残せず無意味に死ぬと思ってた。でも、君と出会って私は変われた。幸せって感情を、生きているという実感を、私が一生手に入らないと思っていた思い出を手に入れられたんだ」
陽子が優しく微笑む。彼女の手にはショッピングで買った天使の羽の指輪が嵌められていて、思いを込めるようにぎゅっと握り込む。
「君に生きるってことを教えてもらった。今度は私が君を生きる道に導く」
陽子の目はまるで太陽のように眩しかった。死にたいなんて思って、生きることを諦めていた私には出せない生命の輝き。ただ、それは蝋燭が消える前に燃え上がる時のような儚さがあった。
「……それなら、私に生きろって言うなら、陽子も生きてよ!!」
生きて。陽子の言葉で自分の本心を知った私から発せられたのは、奇しくも陽子と同じ願いだった。
「陽子が一緒なら生きていける。でも、陽子がいなくなったら、また大事な人を失った私はどうやって生きていけばいいの! ズルいよ……なんで陽子は死ぬ道しか用意されてないの……なんで私の大事な人はみんな死んじゃうの……」
本当はただ好きだっただけなんだ。お父さんもお母さんも、そして陽子も。大好きで大切な人が不幸になるのが許せなかった。そんな世界に納得できなかった。だから、これから自分に降りかかる不幸が怖くて逃げようとしたんだ。陽子との時間のような幸せがあるかもしれないのに。
「お願い……私と生きてよ……」
叶わぬ願いを込めて陽子の手を握る。そんな彼女の手から徐々に力が抜けていっているのに気が付いた。全部分かってしまった。徐々に彼女の手から温度が消えていく。私の手から幸せが零れ落ちていく感覚の中で、陽子と目が合った。
「あーあ……死にたくないなぁ……」
陽子は最期にそうやって笑った。
するりと私の手の中から陽子の手が零れ落ち、たらんと力なく垂れ下がった彼女の腕がゆらりと揺れる。陽子の涙の最後の一滴が頬を伝ってベッドにしみ込む。彼女の死に顔は安らかで、体を揺すったら起きるのではないかと思ってしまうほどだ。
「……わかったわよ。ばか」
ぽろぽろと零れ落ちる涙を拭って立ち上がる。こんなところで下を向いている場合じゃない。
だって、私はもう彼女の想いを受け取ったのだから。
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