第8話 海原
8月21日、夕暮れを反射して輝く波の揺らめきを温度を失っていく砂浜に立ち尽くして眺める。午後5時を回ってもまだまだ明るいが、時間が遅いことには変わりはない。穴場だと言われているこの砂浜には私たちの他に誰もいなかった。
「綺麗だね」
私の腕につかまりながら陽子がそう呟く。この体勢にも慣れたもので、陽子に合わせてかがむような体勢への違和感もなくなってきた。ただ、この格好で肌が触れ合うと少し話が違ってくる。
「どうして海なんて来たいと思ったの」
向日葵畑に行った日の帰り、陽子は今度は海に行ってみたいと言った。水着なんてお互い持っていなかったから、その日に買って帰った。この前のショッピングでは自分で選ばなかったのに、私に割と派手な赤いビキニを選んで、自分は落ち着いた雰囲気の白いワンピースタイプの水着を選んだ。
積極的なのは良いことだけど、いったいどんな心境の変化なのか気になった。でも、陽子は答えてくれず、「海に行ってから教える」と答えを先送りにした。そして海に来た今、その答えを求めた。
「それは……遊び疲れてからにしよう」
陽子は言い淀んだ後、また答えを先送りにした。彼女にしては珍しいはっきりとしない態度に違和感を覚える。でも、無理に答えを聞く理由もない。言い淀むのには何かわけがあるのだろうし、ここは彼女の望むようにするべきだ。
「そうね。せっかく海に来たんだもの。楽しみましょう」
海で遊べば陽子の意図も理解できるかもしれない。そう思い直して、陽子を連れて砂浜に寄せては返す波に足をつけた。
「キャッ!」
陽子は足が波に触れた瞬間、反射的に足を引いた。クールな彼女からは想像できないような可愛らしい悲鳴に笑いそうになって口を抑えると、恥ずかしそうな顔をした陽子がこちらを睨みつけていた。そんな顔もできるんだと、二連続の陽子の意外な表情が微笑ましくて目を細める。それを馬鹿にしていると解釈したのか、陽子は私の足を無言で蹴って抗議してきた。
「ごめんごめん。陽子がそんな声出すなんて思わなくって」
「私だって自分からこんな声が出るなんて思っていなかったよ。想像以上に海が冷たくて……みんなよくこんな場所を泳げるな」
「入ってたら慣れてくるのよ。それに昼間の陸は暑すぎるから、これくらいでちょうどいいの」
「そうなのか。私の場合は全身浸かったら、慣れる前に凍えてしまいそうだね」
この時間になってもまだまだ暑いけれど、太陽の力が弱まる分、海で遊ぶには少し寒い。体の弱い陽子ならなおさらだ。万が一転んで全身が海に浸かろうものなら、遊び疲れる前に帰ることになってしまいそうだ。
「陽子、絶対手を離さないでよ」
「ふふっ、その心配は不要だよ」
「え?」
陽子はその瞬間、私の腕から手を離して海に向かって一歩前に進んだ。
「ちょっと! なにして──」
このままでは倒れて海水に沈んでしまう。焦って手を伸ばしたけど、私はすぐにその手を止めることになった。
「どうだい?」
陽子は自分の足で立っていた。私に寄りかかることなく自分の力で。
「え……どうやって……」
「長い病院生活と病気の影響で足の筋肉が衰えていただけで、歩けないわけじゃなかったんだ。だから君と外出するようになってからリハビリを始めて、こうやって歩けるようになったというわけさ」
誇らしげにそう語る陽子は、沈みゆく夕日を背にして笑った。彼女の無邪気な笑顔からは、リハビリの成果が出たことが、自分の足で立って海を歩けることが本当に嬉しいことが伝わってくる。その時、私は彼女に幸せを届けられたのだと確信できた。
陽子がリハビリを始めたきっかけは私との外出だ。病院に閉じこもっていた今までの彼女にとって、自分の力で歩けなくても何も問題はなかった。でも、私と出会って病院の外に行くようになり、自分の足で歩かないと面倒なことが増えた。私が支えるから、自分の足で歩くことは必要というわけではない。ただ、歩けた方がきっと楽しい。残り少ない命を使って努力をしてくれたのは、それくらい私との時間を大切にしたいと思ってくれているからだ。
「……ありがとね」
「それはこっちのセリフだよ、向日葵」
陽子は私に歩み寄って、優しく手を握った。私より体温が低い彼女の手はひんやりとしている。でも、彼女の瞳は温かくて、見つめられていたら心が溶けてしまいそうだった。
「君はただ意味もなく死んでいくだけだった私に思い出をくれた。君との関わりの中で、こんな私にも楽しいと思える感情があるんだと知れた。生きているんだと思わせてくれた。ありがとう」
陽子の死期が近いことには変わりない。弱い体で何回も外出して寿命を縮めたかもしれない。でも、陽子は屈託のない顔で笑ってくれている。それだけでもう私は満足だった。私はもうやるべきことをやりきった。きっと、陽子に幸せを届けることは、死ぬことを望んでいた私に最後に与えられた役割だったんだ。
これできっと私も陽子と同じところに行ける。陽子と一緒に死んで、天国で幸せな夢の続きを見よう。死ぬ時も寂しくなんてさせないよ。
「さて、なにをしようか」
感謝の言葉が照れ臭かったのか、陽子は手を離して一歩引いて、海で遊ぶ話に切り替えた。陽子が歩けるようになったとはいえ、あまり激しい運動はできない。泳ぐのもきっと難しい。砂浜と海を使って私たちができることはほとんどない。
「海に沿って一緒に歩きましょう」
「それがいいね。夕焼けも綺麗に見えることだし」
大海原に沈んでゆく太陽は雲一つない空とどこまでも広がる雄大な海を橙色に染める。絵に描いたような夕方の海の景色を見ながら、陽子と隣り合って歩く。それくらいしか選択肢はないけど、他のことができたとしてもこの選択がきっと一番思い出に残るだろう。
「向日葵は海は好きなのかい」
「あんまり。潮風と海水で肌はべたつくし、海のにおいも好きなタイプじゃないし」
幼少期に何度か連れて行ってもらったけど、わざわざこんなにもたくさんの人が来るほどの魅力があるとは思えなかった。夏の期間しか入れないとか、夏っぽいことがしたいとか、みんなが海に来るのはそんな理由で、本当に海が好きな人はそんなにいないような気がする。山派か海派かというよくある質問に、私は迷うことなく山派と答える。
「ふふっ、やっぱり向日葵は陸の方がいいか」
「砂と塩水じゃ綺麗に咲けないわ」
ちょっとした冗談も混ぜて思うがままに雑談をする。波の音をBGMに、夕暮れの海の景色を背景に、私たちは言葉を交わす。ただそれだけ。でも、自然体でいられる陽子と私の空気感は心地いい。
そうやって歩いていたら、砂浜に綺麗な貝殻が埋まっているのを見つけた。均一な模様がついた巻貝、あれを耳に当てると波の音が聞こえると聞いたことがある。
数歩駆けて横を歩く陽子より前に出て、一足早く巻貝を拾い上げる。そして手で砂を取り除き、振り返った。
「ねぇ、陽子。この貝……」
そこに陽子は居なかった。どこに行ったのだろう。そんな呑気な思考は、次の瞬間には消え去った。
ほんの少し視線を下に向ければ、砂浜に倒れ伏す陽子がいた。
「陽子!!」
貝を放り投げて陽子に駆け寄る。うつ伏せになっている彼女を助け起こして容態をみる。体温はさっき触れた時より下がっていて、苦しそうにぜぇぜぇと落ち着かない呼吸をしていた。
「待ってて陽子。すぐに病院に連絡するから」
何があってもいいようにいろいろなものを入れたカバンは持ち歩いている。その中からスマホを取り出して病院に連絡する。そして救急車が到着するまでの間、陽子が体を冷やさないようにタオルを巻いて、着替えた場所から上着を持ってくる。
「大丈夫。絶対大丈夫だから」
救急車にすぐ入れるように陽子を抱えて道路沿いに出る。そうやって陽子に声をかけながら必死に助けようとしていた時だった。
「ふふっ」
陽子が笑った。顔は苦しそうなのに、確かに笑った。理解ができずに大きく目を見開いて見つめると、彼女の口が弧を描いた。
「きみもかわったね」
「え……なに? どういうことなの」
私が陽子の言葉の意図を聞こうとした時、救急車のサイレンの音が聞こえてきた。それと同時に陽子は意識を失った。
「もって今月までです」
その夜、病院に残っていた私は医者からそう聞かされた。
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