第7話 青空

 どこまでも広がる青空の下で美しく咲き誇る向日葵たちは、夏風に晒されてゆらゆらと穏やかに揺れている。ギラギラと照り付ける太陽の光は日傘で防がなければ肌を焼くほど強烈だ。陽子も同じように日傘の下にいるけれど、身体の弱い彼女が倒れてしまわないか少し不安だ。


 8月18日、私は陽子を連れて隣町の向日葵畑に訪れていた。なぜ私たちがこんなところにいるのかというと、それが陽子の望みだったからだ。


 ○○○


「君が好きな場所に連れて行ってくれないかい」


 昨日、陽子がふとそんなことを言った。雑貨屋で買った指輪をつけた彼女は、面食らう私にやっぱりと言うように柔らかく笑い、ベッドから足を降ろして私と向き合った。


「君のことが知りたいんだ」

「……どうして?」

「友達のことを知りたいと思うのはごく自然なことじゃないか」


 それもそうだ。友達同士、この前の外出で私たちの関係はそう名付けられた。それなのに私と陽子は互いのことをよく知っているとは言えない。特に私は、死にたいと思っていること以外、陽子に自分のことを話したことがない。だから陽子は私のことを知りたがっているのだろう。


「いいけど、面白い場所じゃないわよ」

「私にとっては、君がいるかいないかだよ」


 それが判断基準でいいのか。いや、私は先が短い陽子の唯一の友達なんだ。そんな重要な役割を与えられても不自然ではない。ともあれ、身体が弱い陽子をあそこに連れて行くには準備が必要だ。


「日傘と帽子と日焼け止めって持ってる?」

「世話役に頼めばいつでも用意してもらえるよ」

「それなら準備してもらって。飲み物とかの暑さ対策もしといてね」

「海にでも行くのかい?」

「それもいいけど、違うわ」

「なら、海はまた今度にしようか」

「そうね」


 また今度、そんな言葉が陽子から飛び出す。それも十分驚くべきことだけど、それ以上になんて事の無いように「そうね」と肯定できた自分に驚いた。まるで死の影とは無縁であるかのような会話が私と陽子の間で交わされる。この変化は、陽子が幸せになれているということなのだろうか。


 そんなことを考えながら、私も準備のためにその日は早めに帰ることにした。


 ○○○


 隣町にある自然公園の一角にある向日葵畑。有名な向日葵畑と比べるとこじんまりとしているが、近場にあると考えれば十分広いと評価できる。それに、丁寧に手入れされているから一本一本に魂が籠っている。近くでじっと見つめれば、太陽の光に愛されて育った温かさを感じる。


「座っていると見えにくいな」

「じゃあこの前みたいにする?」

「そうだな」


 車椅子を置くためにトイレの近くに行ってから、陽子が差し出した手を取って、ゆっくりと立ち上がらせて一度抱きしめる。ゆっくりと肩を抱くように体勢を変えさせて、私に寄りかかって歩けるようにした。陽子と密着するこの瞬間、甘い香りともまた違う、天日干しした布団のような優しく温かい香りが広がる。肩に寄りかかる体勢はショッピングの時もやったけど、今でも少し照れくさい。


「少し歩きましょうか」

「そうだね」


 日光が万が一にも当たらないように陽子の方に日傘を寄せて、向日葵が両側に見える一本道をゆっくり歩く。広大な向日葵畑。ここは昔から全く変わっていない。綺麗なひまわりと、届かないと分かっていても手を伸ばしたくなるような青い空。本当に、変わらない。


「向日葵……ねぇ、向日葵」

「え、あぁごめん。なに」

「見惚れている、と言うよりは心ここに在らずってかんじだね。どうかしたのかい」


 陽子が私の顔を覗き込みながらそう尋ねた。心配というより興味という感情が近いだろうか。ミステリアスな彼女の笑みに捕らえられた私は、誰にも話したことがない私の過去を話すことへの抵抗を失った。


「昔を思い出してたの」

「昔というと、どれくらい昔かな」

「8が少し大きく開かれたが、すぐに元に戻った。驚愕があったのだろうが、私が話そうとしていることを優先してくれたみたいだ。人と関わってこなかったはずの陽子の優しさに、彼女と触れ合えるような場所に心があるように感じた。


「信じられないかもしれないけど、あの頃の私は活発な……普通の、どこにでもいるような元気な子供だったの」

「性格や立ち振る舞いは、きっかけ一つで簡単に変わるものさ。君に元気な頃があったって驚かないよ」

「そう」


 死にたい、そんな思いを相手を気遣うことなくぶつけ合っていた、出会ったばかりの私たちでは考えられないようなやり取り。傷つかないように、傷をえぐらないように、互いの傷を気遣うような言葉を交わす。この変化は陽子が幸せを感じてくれているからだけではない気がした。


「すこし昔話に付き合って」

「君のことが知れるなら」


 ○○○


 私の両親は疑いようのない善人だった。いつも誰かを気遣っていて、善意の中で行動を決めていた。そんな両親を、美しいと思った。この輝きは誰にも侵すことは許されないと、この世界から消えてはいけないと、純粋な子供の私は直感していた。


 8年前、ピクニックに行こうと両親はここに連れてきてくれた。お母さんの美味しいお弁当も、お父さんと広場を駆け回ったことも、全部が大切な思い出だけど、私の心に今も深く突き刺さって抜けない記憶が、この向日葵畑だった。


「向日葵の花言葉は「情熱」「あなただけを見つめる」「あなたを幸せにします」。ひまちゃんの幸せを願ってこの花の名前を借りたの」


 背の高い向日葵を見上げる私にお母さんは名前の由来を教えてくれた。太陽の光を受けて美しく輝く大輪の力強さは、そんな花言葉があるということを納得させてくれた。


「それと向日葵を選んだ理由がもう一つ。のびのびと、そしてどんな時でも上を向いて生きて欲しいんだ」

「上を向いて……」


 お父さんの言葉を聞いて向日葵を見遣る。太陽を見上げ、堂々と天へ伸びていく黄色の花の姿は力強く、私の目指すべき姿を示してくれていた。上を向いて力強く生きる。それが両親の望みだというのなら、そんな生き様をこの名前がくれるなら、私はこの美しい花のような生き方を貫こう。この二人の間に生まれた私ならそれができる。この時の私はそう信じて疑わなかった。


 お父さんとお母さんと手をつないで向日葵畑を歩いた昼過ぎのひと時を、一生忘れることはない。幸せであふれた両親との最後の時間を。


 善人は報われると思ってた。いつも幸せそうな両親を見ていたから、自然とそう思うようになっていた。でも、違ったんだ。訪れるのが幸福か不幸かに、今まで積み重ねてきた人生は関係ない。善人にも不幸は訪れるし、悪人にも幸福は訪れる。


 むしゃくしゃしてやった。そんなふざけた動機で両親を焼き殺した男が、私の価値観を変えたんだ。


「な……え……」


 燃えさかる自宅を前に、膝から崩れ落ちた私は呆然と燃え落ちていく様を見上げていることしかできなかった。その日の夜、私は海音とお泊り会をしていた。ピクニックの帰りにそのまま海音の家に行って、二人でまだまだ続く夏休みで何をしたいか話していた。火事が起きたという知らせを聞いて家に帰った時には、もうお父さんとお母さんは病院に運ばれていた。そして、私が病院に着いた頃にはすでに二人は息絶えていた。


 幸せな家庭が理不尽によって壊された。誠実に正しく生きてきたはずの二人がこんなにも苦しんで死んだ。両親は最後に娘の顔を見ることも叶わず、娘は親の死に目に立ち会うことができなかった。


 自分の中で何かが音を立てて崩れていくのが分かった。七色に彩られて幸福の世界を信じていた。そんな世界で私は生きていた。でも、その日から私の世界から色は失われた。目の前に広がるのは灰色の世界。


 私はこの世界に生きる意味を見出せなくなった。


 ○○○


 初めて誰かに私の過去を話した。あの時一緒に居てくれた海音も知らないことまで何もかも。


「面白くない話だったでしょ」


 大好きな両親を悪人に殺された。ドラマや小説で何度も見たような典型的な悲劇。面白くもなんともない、こんな綺麗な景色の雰囲気を壊してしまうような辛気臭い話は、命が残りわずかな陽子にとって時間の無駄だっただろう。


「教えてくれてありがとう。君がどうしてあんな顔をしていたのか、ちゃんと理解できたよ」

「意味あるの、それ」

「あるさ。友達の事なんだから」


 ぎゅっと陽子が私の腕を抱きしめる力が強くなる。寄りかかっているのは陽子の方なのに、過去を思い出して足元がふらついた私を支えてくれている。人並みに、等身大の人間のように、私の悲しみに寄り添ってくれている。


 私は陽子を特別な人間だと思っていた。初めてであった時の彼女は、まるで天から降りてきた天使のようで、彼女の価値観は今までの私が触れてきたものとはまりで違っていたから。でも、陽子も人間なんだ。ただ、他の誰も歩んでこなかったような道を歩いていただけ。友達として関わってきたこの数日で、私の陽子への印象は大きく変わっていた。


「優しいのね」


 こんな少女に生まれた時から不幸を確約したこの世界は、やっぱり狂っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る