第5話 外出

 8月15日、私は病院の待合室の椅子に座っていた。


 体の弱い陽子を外に連れ出すのは難しい。なんなら、家族の召使の監視も搔い潜らなきゃいけない。それなりの下準備が必要だ……と思っていたのだけど。


「今日は世話になるよ」


 夏にぴったりな空色のワンピースに身を包み、麦わらに白いリボンが巻かれたボーラーハットを被った陽子が看護師さんに車椅子を押されて登場した。病院の待合室で待っていた私に、陽子は手を振りながら微笑みかけている。


「何かトラブルがあればこちらに連絡してください。病院の者が向かいますので」

「わかりました」


 丁寧な口調の看護師さんから電話番号が書かれた紙を受け取る。役目を果たした看護師さんはすぐさま仕事の戻り、私と陽子は晴れて自由の身となった。


「案外簡単に外出できるんだね」

「両親が海外出張らしくてね。今なら日本のどこへでも行けるよ」


 陽子の言葉を聞いて、車椅子の取っ手を握る手に力がこもる。陽子の両親は彼女を存在しなかったことにした。だから、万が一にでも顔を合わせないように近場にいるときは外出させないようにしていたのだろう。今の彼女の言葉はそういう意味だ。被害を受けている本人はあっけらかんとしているが、どこまでも自分の都合で動く彼女の両親に怒りを覚えた。


「怒る必要はないよ。あの人たちが何もしなくても、そもそも私には外に連れ出してくれる友人がいなかったのだから」


 不幸に慣れた陽子は、自分の不幸を呪う術を知らない。どうせ自分に幸福は訪れないという諦観が、怒りという人間らしさを失わせていた。人間らしさがないなんて、私が言えたことではないけれど。


「辛気臭い話はここまでにしよう。せっかくなら楽しまないとね」

「まぁ、そうね」

「出掛けようと言ったのは君なんだ。しっかりエスコートしてくれよ」


 陽子の言うとおりだ。私の目的は陽子に幸せを届けること。会いもしない誰かに怒りを向けるのではなく、目の前の彼女にどうすれば笑ってもらえるか考えるべきだ。気を取り直した私は、陽子が座る車椅子を押しながら最寄りのバス停に向かった。


 バスを乗り継いで到着したのはショッピングモール。それなりの規模のこの町に鎮座するこのショッピングモールは、中高生や子連れの親子によく利用されている。夏休み真っ只中の八月は、平日でも関係なく混んでいる。


「にぎわっているね」

「夏休みだから」

「そうか。今はそんな時期か」


 病院にずっといた陽子にとっては今が何月でも関係ない。今日の彼女の雰囲気がいつもより柔らかいのは、ずっと牢獄に閉じ込められていた反動だろうか。道行く人を目で追いかける彼女を乗せて目的地に向かった。


 周りの人は思ったよりも優しくて、車いすの陽子を気遣って優先的にエレベーターに乗せてくれた。日本人の美徳に感謝しつつ、二階にある有名ブランドのファッション店に到着した。


「死装束を選んでくれるのかい?」

「笑えないジョークね。死ぬ死なないにかかわらず、女の子は綺麗でいたいものでしょ」

「誰に見せるわけでもないのに?」

「私がいるでしょ」

「……あぁ、そうだったね」


 身体の弱い陽子は試着するのが難しいと思って予定に入れていなかったけど、ちゃんとおしゃれして来てくれた彼女を見て、折角ならいろんな服を着てみて欲しいと思って連れてきてみた。陽子の反応を見るに、行きたくないというわけではなさそうだ。彼女の気が変わらないうちに私は車椅子を押して入店した。


 ここのブランドは大人な女性に似合いそうなクールな雰囲気の服や、華美でなく落ち着いた雰囲気の綺麗な服が多い。パッと見て一番陽子に似合いそうな服が多そうな店を選んだけど、当たりだったようだ。彼女に着てみて欲しい服がたくさんある。


「陽子はどんな服を着てみたい?」

「客観的に見て私に似合う服がどんなものかは分かっているつもりだ。ただ、私が着てみたい服となると返答に困るな」

「どうして?」

「どんな服を見ても着てみたいとは思わないんだ。今までどうでもいいものだと思って生きてきたからね」


 陽子は周りの服を見まわしながら小さくため息をついた。彼女はいつも病院服を着ていて、私服なんて考える必要はなかった。そんな彼女にいきなり服を選んでみて欲しいなんて、スポーツに興味がない人にどんなサッカー選手が好きか聞くようなものだ。私としたことが迂闊だったと反省する。


「君が私に似合いそうなのを選んでくれ」

「それでいいの?」

「そのほうが綺麗になれそうだ」

「そ」


 陽子に着て欲しい服はいくらでもある。陽子を綺麗に着飾る自信もある。本人からの了承を得た私は、私の太陽をもっと輝かせるための服を選び始めた。


 ○○○


「案外いいものだね。おしゃれをするというのは」


 ファッション店での買い物を終えた私たちは二階の落ち着いた雰囲気のカフェで休憩していた。黒と白の現代的な内装にところどころの観葉植物が命の息吹を吹き込んでいる。開放的な窓から差し込む日光では照らせない場所はLEDの淡い明りに照らされている。好んで窓際の席を選んだ私たちは注文したドリンクを嗜んでいた。


「でも、試着しなくてよかったの?」

「着替えをするのも一苦労なんだ。君に着替えさせてもらうわけにもいかないだろう」

「陽子のほくろの数と位置も全部知ってるのよ。今更そんなこと気にしなくていいのに」

「あぁ、そうだったね」


 この前の奇行を陽子は全く恥じていない。全部見られたというのに、そのことに言及しても彼女は照れ顔の一つもしない。何もかも諦めている陽子の感情を強く動かすのは至難の業のようだ。ただ、今の陽子はいつもより楽しそうに見える。これが夏休みを謳歌する他人にあてられた私の勘違いでないことを祈る。


「甘党なのね」

「意外かい?」

「べつに」


 カフェオレを頼んだ陽子は一口飲んだ後、そこに砂糖のスティックを二本、ミルクを二つ追加した。それでちょうどよくなったらしく、もう一口飲んだ時は満足げな表情を浮かべていた。


「陽子の味の好みを知ったのは初めてね」


 陽子は普段は病院食だし、私が病院に訪れる時間的に彼女が食事しているところを見ることは、たまに気まぐれで長居したときくらいだ。


「陽子のことを知れてうれしいわ」

「そういうものかい?」

「そういうものよ」


 陽子は私の太陽だ。人生の最期に隣に居てくれる人。私に安らかな死をくれる人。そんな彼女を知ることは、私の人生をより幸福にしてくれるのだ。


「……私と君は友達なのかい?」

「え?」


 陽子の突然の問いかけに紅茶を飲む手が止まる。友達、この灰色の世界に絶望してから私の中から消えた概念。海音とはそれに近い関係だと思うけど、一緒に遊ぶこともないし、学校にいる時に特別よく話すこともない。友人、顔見知り程度に収めるのがちょうどいい。


 確かに私は陽子と出会ってから毎日のように会っているし、互いに何の遠慮もなく本音を話しているし、今日はショッピングモールで遊んでいる。世間一般で言う友達のようなことをしていると言ってもいい。


 ただ、私と陽子を繋げているのは死だ。この世界に絶望して諦めた陽子と全てを投げ出した私の死にたがり同士。こんな私たち二人の関係を友達と言って良いのだろうか。


「友達と言うには私たちの関係は仄暗いわ」

「そうなのかい? 私は君といて楽しいよ」

「……そう」


 頬杖をつきながら陽子は笑いかけた。それは初めて会った時の私の心を焼き尽くした輝きとは違う、暗がりにいる私をそっと照らしてくれるような優しい光だった。


「陽子が友達だって思うならそれでいいと思うわよ。関係を表す言葉が同じでも、その定義は人によって変わるから」

「なるほど。それなら君は私の初めての友達だ」


 さっきと変わらない優しい笑顔。出会った頃のミステリアスで人間離れした絶対的なオーラを持つ彼女からは想像できない、見つめられていると心が温まるような優しい雰囲気。


 この外出は陽子に幸せを届けるためのものだ。病院の外に出てワクワクして、ファッション店でおしゃれも悪くないと楽しんで、カフェで私に笑いかけてくれた。まだ予定はあるが、目的は達成されたと思っていいだろう。


 陽子の後悔のない死こそが私の安らかな死に繋がる。はじめはそう考えて外出を提案した。でも今は、こうやって笑いかけてくれる陽子を純粋に幸せにしたいと思った。


 愛おしい。この世界が色を失ってからは忘れてしまった感情を思い出す。


「友達なら、名前で呼んで欲しいわね」

「お望みならいくらでも呼ぶさ、向日葵」


 向日葵。ただ名前を呼ばれただけなのに、優しく頭を撫でられたようにこそばゆい。自然と上がってしまいそうになる口角を見られないよう、口元を手で覆って隠す。ほんの少し揶揄うつもり言ったのに、こっちが照れてしまった。悔しいような、嬉しいような。


「合格。これからは正式に友達同士ね、陽子」


 平静を装いながら、曖昧だった私たちの関係に名前をつけた。

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