第4話 散歩
「少し散歩に出かけないかい?」
8月13日。いつも通りお見舞いに来た私に、陽子はそう提案をした。いつも病室に居て、余命僅かだという割には傍から見れば陽子は元気に見える。でもそれは私が陽子の体調について何も知ろうとしなかったからだ。この前に聞いた彼女の弱々しい心臓の音は、生命が終わりに向かっていると知るのは十分だった。
陽子は立って歩くことができない。病気の影響で体全体にガタが来ているらしい。だから散歩がしたいときは車いすに乗って誰かに押してもらう必要がある。その誰かに私が選ばれたのだ。看護師さんが前もってここに置いて行ったという車椅子に陽子を乗せて病室を出た。
大学病院内にある広い庭には子供からご老人、その人たちを見守る看護師さんたちや家族の人たちと、様々な人たちがいる。遊園地や公共の公園とは違って賑やかさは控えめだけど、和やかな雰囲気がここにはある。
「散歩なんてするんだ」
「たまには外に出ないとね。あんな場所にずっと閉じ込められていたら気が狂ってしまうよ」
車椅子の上で周囲の景色を眺める陽子を日傘の下に入れながら前に進んでいく。ここは外界よりも死に近いはずなのに、夏の苦しい暑さすら和やかな陽気に変えてしまう不思議な力が働いている。
「……天国みたいだね」
死に近いこの場所で、温かな空気に包まれて楽しそうに笑い合う人々は、私には奇妙な屍人に見えてしまう。後悔なく生きてきたかのような、今までの人生に満足しているかのような、同じ人間とは思えないような考えのもとこの場所で笑っている屍人。
言葉にできないような和やかさを持ち、生きている生命の美しさを欠落したこの場所は、私の思い描く天国と一致していた。
「天国か。君にはそう見えるかい」
「陽子は違うの?」
「私にとっては、地獄に続く一本道さ」
地獄。天国と正反対の場所を陽子は思い描いている。しかし、のどかなこの場所の雰囲気から地獄を思い描くことはできないし、広々としたこの場所は一本道とも言えない。陽子の見えている景色は私がみているものとは違っているのだろうか。
「私みたいに死ぬことが決まっている人間にとって、死はいつだって隣にあるものだ。そんな中でこんな綺麗な場所を歩いたら、このまま消えてしまうんじゃないかと思ってしまうのさ」
この庭は綺麗だ。だから病気や怪我で苦しんでいる人たちの心を癒せるのだ。しかし、この美しい景色から陽子が感じ取ったものは死だった。死があまりにも近いからこそ、美しさに触れて死を意識してしまう。それは私にも覚えがあった。
ただ、一つだけ気になるところがあった。
「陽子は死んだら地獄行きなの?」
地獄は悪人が行く場所だ。私は陽子が悪行を働いたことがあるとは思えなかった。陽子は私を揶揄いはするけれど、私が嫌だと思うことはしない。私の死にたいという願望を否定することなく、ほぼ毎日ここに訪れる私を受け入れてくれている。優しいとはまた違うかもしれないけれど、少なくとも私は陽子が地獄行きだとは思えなかった。
「……すぐに消える命でありながら生まれてきてしまった。両親には悪いことをしたと思っているよ」
「両親……そういえば、陽子の家族ってどんな人なの? 何回も来てるけど見たことない」
陽子と出会って半月も経っていないけど、死ぬ間近だというのに彼女の家族を見たことがない。どういう形であれ、私は彼女に幸福をもらった。挨拶くらいはしておきたい。
「来ないよ。彼らにとって、私はもう存在しない人間なんだ」
「……は?」
陽子が存在しない人間? そんなはずがない。だって、いまこうやって私と話していて、この車椅子からは軽いけれど彼女の重さを感じるもの。
「どういうこと」
「言葉の通りさ。……少し、昔話をしようか」
陽子はそう言うと、どこか遠い目をしながら話し始めた。
○○○
私は裕福な家に生まれた。その家庭は幸福に満たされていて、5人目の子供……私が生まれる時も家族全員で立ち会っていたそうだ。そうしてその家族の三女として生まれた私だったが、生まれてすぐの検査であることが発覚した。
この子は長くは生きられない。不治の病に冒されていて、少なくとも成人する前には死んでしまうそうだ。それを知らされた両親は私が助かる方法を血眼になって探した。
しかし、娘が助かる方法はこの世に存在しなかった。延命はできても、それでは娘の苦しみを長引かせるだけだ。夫婦は大切な子供が死ぬことを指を咥えて見ていることしかできない。
そんな現実を夫婦は拒絶した。娘を失う悲しみも、娘を救えない己の無力も、あらゆる事を完璧にこなしてきた二人にとって受け入れられない現実だった。
だから、二人は娘の存在を無かったことにした。
こんな不幸な娘さえいなければ、家族を失うという不幸を味わわずに済む。自分たち家族は幸福で満たされたままでいられる。そうやって私を切り捨てて、あの夫婦は幸せな家庭を守った。
私に関する手続きなどを召使たちにまかせ、私を邸宅から遠く離れた病院に隔離した。お見舞いなんて当然来ないし、私が会いたいと言っても応じてくれない。何度も病院から脱走しようとしたけれど、私の弱い体ではすぐに捕まってしまう。
そうして私は、誰からも愛されることも、見送られることもなく、死の香りが漂うこの白い城砦に閉じ込められたまま一生を終えることが決まった。
〇〇〇
初めて知った陽子の過去には何一つ幸福なんてなかった。生まれた時から短命であることが決められ、それ故に体の自由を奪われ、自分をこの世に産んだ親に捨てられた。まるで、苦しんで生きることを神様が決めていたかのような人生だ。
「もし私が普通の子供だったら、きっと両親は私を幸せにしてくれた。でも、神様が決めた運命のせいで、私も両親も不幸になった。きっと、神様は私のことが嫌いなんだ。だから、私は死んでも神様が待つ天国には行けない」
陽子のその言葉からは、何年も不自由の中で不幸に生きた人生から絞り出された諦観が滴っていた。陽子は幸福を知らない。私の生きてきた世界は灰色に見えたけれど、きっと彼女が見る世界は虹色の幸福が黒く塗りつぶされている。幸福を手にする権利を神様に奪われた陽子は、誰かから与えられる幸福を望んでいる。
陽子の過去を聞いて、初めて陽子が何を考えているか分かった気がした。
『……私だって生きてるんだよ』
神様から生きるという選択を奪われ、両親にすら自分という存在を無かったことにされた。あれは、誰からも命を認めてもらえない陽子の心の叫びだったんだ。
「……そんなの酷すぎるよ。地獄に行くのは陽子の親だよ。終わることが決まっていても、諦めずに陽子の命と向き合えばどこかに幸せがあったかもしれないのに、運命から逃げて娘を不幸にした。陽子は何も悪くない。陽子が地獄に行く必要なんてどこにもないんだよ」
「そうかな。命と向き合うことを諦めたというなら、それは私も同じだ」
陽子は顔を伏せて私に背中を向けたままそう言った。私と陽子は同じ死にたがりだ。でも、その根本に抱える想いが違うと気付いた。私はこの灰色の世界に価値を見出せないから終わろうとした。でも陽子は、この世界には虹色の幸福があると信じていて、それが手にできない自分に絶望したから終わりたいと思っているのだ。
私は死ぬなら安寧の中で死にたい。でも、陽子が不幸なまま死んだのなら、私の手から安寧な死は零れ落ちてしまう。
「ねぇ、私と一緒にお出かけしない?」
だから、私が陽子に幸福を届けるんだ。
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