第3話 黒点
8月10日の昼下がり。いつも通り私は陽子のいる病室に向かった。その途中、サングラスをつけた黒スーツの二人組といういかにもな大男とすれ違った。あんなのが病院に何の用だろうかと気になったが、何かしらの事情があるのだろうと気に留めなかった。
病室の扉を開けると、いつもと違って窓もカーテンも全て閉められていた。しかも電気がついていないため、わずかな隙間から差し込む日の光以外は何も光源がなかった。もしやと思い一気に血の気が引くのが分かる。
彼女の寿命が僅かなことは知っていた。でも、まさか、こんないきなりだなんて思っていなかった。昨日普通に話をして、あんなに安らかに眠っていたのに。急変した病室に焦った私は、こうやって病室に通されている意味を忘れて暗闇の中に駆けだそうとした。
「おや、今日も来たのかい」
私が一歩目を踏み出した瞬間、廊下から差し込む光が届かない真っ暗な空間から陽子の声だけが聞こえてきた。彼女の名前を呼ぼうとした声は喉奥に引っ込んで、一気に肩の力が抜けた。
「……暗いんだけど。電気つけていい?」
「電気はダメだ。カーテンを開けてくれ」
「はいはい分かりました」
いつも夏の日差しの恩恵で明るい病室が急に暗闇に包まれていて、こっちは気が気でなかったというのに、彼女は呑気な声で私を出迎えた。心配して損したと思ったが、それを口に出すわけにはいかない。だって、こうやって病室に通されているのだからお見舞い相手の陽子が死んでいるわけないという簡単なことも考えられないと思われるのが癪だったから。
陽子の要望通りにカーテンを開けると、暗い病室に光が差し込んだ。すると、いつも通りの病院服を着た彼女がベッドの上で足を延ばして座っている姿が見えるようになる。掛け布団はベッドの端にたたまれていて、彼女がベッドの上を広々と使えるようになっていた。
「窓も開ける?」
「いや、いい」
今日は病室に冷房をきかせているようで、普段よりも一段と快適だった。念のため確認をとったが、陽子は涼しい顔をして断った。
「あんなに部屋を暗くして何やってたの」
「マスターベーション」
「は?」
「分かりやすく言うとおな」
「分かってる。分かってるからちょっと待って」
いつもと違う病室の様子に何かあったのではと質問してみると、予想の斜め上の解答が返ってきて、涼しい顔であの呼称を使おうとする陽子の声を遮った。
いや、そういう事をするのが悪いとは言わない。人間としての欲求を消化するために必要な行為だ。しかし、出会って間もない私にしていたことを教えるのはおかしいと言わざるを得ない。距離感を見誤っている。いや、死にたいとかそんな話をしている時点で気にすることではないのか?
そもそも彼女が言っていることは本当なのだろうか。私を揶揄うための嘘なのではないか。そんな疑いを持って彼女が座っているベッドのシーツを見ると、交換したばかりのようで真っ白でシワひとつない状態だった。これではただ交換したのか、した後に交換したのか判断がつかない。
いつもと違って真っ暗で窓を閉め切っていた病室。まるで何かを隠すような仕草が、彼女の言葉が本当だという説を優勢にする。考えてもどうにもならないと結論付けた私は、本人に直接聞くことにした。
「……冗談よね」
「さぁ?」
手が出そうになった。しかしそんなことをしては出入り禁止にされてしまう。自分が抱いているイライラを必死に抑えて、深呼吸をして吐き出す。まともに付き合っていてはどうにかなってしまいそうだと思い、いつも通り彼女のベッドの隣に置かれている椅子に座った。
「……昨日の君の言葉が頭から消えないんだ」
私が椅子に座ると同時に、陽子はか細い声でそう呟いた。
「どれのこと」
「全部だ。目が覚めてからずっと君との会話が頭の中に残ってて、それを誤魔化すために色々試したんだが……どうにも上手くいかないものだね」
陽子は恥ずかしそうに頬を掻きながら笑った。すべてが掌の上にある彼女は思い通りにいかない現状をほんの少し楽しんでいるように見える。
「君は私を太陽だと言ったね」
「そうね」
「だったら、その太陽を少し観察してみたいと思わないかい」
「観察……? どういうこと?」
陽子の含みのある物言いに頭を働かせるが、私が彼女の思考に追いつけるはずもなく、説明を求めた。
「太陽には黒点と呼ばれる表面温度より温度が低い点がある。今日はそれを探してみてくれよ」
「黒点……あんた何言って」
太陽はあくまで喩えだと言ったのは陽子自身だ。私が陽子を太陽だといった理由を理解していないはずがない。しかし、さっき彼女が説明していたのは間違いなく空で輝く太陽の話で、意図を理解できない私に、彼女は実際に黒点を見せることで説明して見せた。
「私も知らない黒点を見つけてくれたら嬉しいな」
ガウン型の病院服をほんの少しはだけさせて左肩を見せつける。そこにはシルクのように白い肌に堂々と鎮座する黒点が一つあった。窓から差し込む夏の日差しは彼女のすべてをはっきりと見えるようにし、自ら肌をさらすその姿はまるで絵画の中の女神のようだった。
ぞわぞわと背筋に得も言われぬ感触が伝う。恐怖でもなく、感激でもなく、歓喜でもなく、悲哀でもない。私の知らない感情が理性を突き破って私を突き動かした。
彼女が自らはだけさせた病院服を掴み、今度は右肩を露出させる。一切の抵抗もなくするりと落ちていく女神の羽衣のなんと軽いことか。そこから白日の下にさらされた女神の右腕を手に取って隅から隅まで観察する。実際に触れてみた彼女の肌は、血が通っていないのではと思うほどに冷たく、生気を感じさせないほど白かった。
しかし、それが何よりも美しかった。肌は柔らかく繊細で、簡単に手折ってしまえそうな細い腕。右腕のすべてを観察し終えた私は大仕事を終えた後のような達成感と疲労感があった。
陽子の右腕には黒点はない。左腕には一つ。何度も観察している顔にはないことが分かっている。まだ、見るべきところは山のようにある。
女神の美しい銀糸にこともあろうか目もくれずかき分けて、銀糸が覆い隠していた女神の首筋を天の光が照らす。首の後ろの少し右側。そこに一つ黒点を見つける。そっと指で撫でるが、そこもまた温度を感じなかった。血管が多く通うそこは本来であれば温かいはずなのに、私の太陽はその温度すら失っていた。ただ、冷たいとは感じなかった。
このまま力を込めれば冷たくなるのだろうか。そうすれば、この女神は美しいまま私の手に堕ちる。そんな考えが頭をよぎる。
まだ私は役目を果たしていない。そう思い直してゆっくりと視線を下に動かす。頼りなく骨が浮き出た背中を手でなぞりながら確認していく。ぴとりと背骨をなぞると、ちゃんと固い感触がした。酷く脆い存在ではあるが、この女神が空を見上げられるように軸はちゃんと作ってあるらしい。結局、背中には一つも黒点がなかった。
ゆっくりと顔を上げて背後からの陽子を眺める。次の観察箇所は上半身の前側。下着をつけていなかった陽子の正面に回れば、当然見える。ごくりと生唾を飲み込む。
古来より西洋美術では美しい女性を描く際に胸を露出させることが多い。女性らしい美しさの象徴なのだろうと、美術の教養がない私は勝手に思っている。同性であっても、他人のそれをまじまじと見つめることなんてない。だが、私は太陽のことが知りたい。だから、ここでやめるという選択肢はなかった。
ゆっくりと音を立てずに陽子の正面に移動する。妙な緊張と興奮が私を支配する。意を決して陽子の上半身に焦点を当てた。
「きれい……」
感嘆の声が思わず口をついて出た。女神を模した美しい彫像は世界に数あれど、本物の女神には敵わない。日差しを浴びて胸をさらしながらも、恥じらいを感じさせない陽子の姿は、まるで天から降りてきた女神のように神々しい。
女神に魅せられた私は誘われるがまま細身の陽子の控えめなふくらみに触れる。そこに黒点はない。しかし、眩しすぎる彼女の輝きに取憑かれた私は、もう観察する必要がないそこから目を逸らせない。
そんな愚かしい信者を女神は優しく抱き寄せた。頬が女神の柔肌に触れ、胸に耳をそばだてる体勢になる。先ほどまで私の背徳を許してくれた女神の怒りに触れたかと思いかけたが、そんな自分の身を案じる自分勝手で人間的な思考は、すぐに掻き消される。
命の音がした。酷く弱々しい、命の音が。
生命という概念に触れて、私は感動に打ち震える。しかし、その感動はあの日に咲いた向日葵を見た時とは違っていた。
美しすぎる生命の輝きに触れて、あの日の私は終わることを決めた。あの輝きを見て満足したから。でも、陽子の生命の輝きに触れた時に感じたのは満足感ではない。永遠にこの輝きを見ていたいという、余りにも幼稚で愚かしい感情だった。終わりたいと思っている私が、もうすぐ終わる女神の命に永遠を望むなんて。バカらしい。
このままではどうにかなってしまいそうだと察知した私はすぐに離れようとしたが、他でもない女神がそれを許してくれなかった。
「……私だって生きてるんだよ」
私にしか聞こえないよう囁いたその言葉の意味を、私は理解することができなかった。
ただ、永遠を望むこの幼稚で愚かな信者は、この都合がいい今を手放す選択ができるほど聡くはない。結局私は、女神に抱きしめられながら、ひどく脆い命の音を永久に聞き続けることを選んだ。
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