第2話 出会い
8月1日、育てていた向日葵の花が咲いた。私と同じくらいの高さまで伸びて、じりじりと暑い夏の世界で力強く、そして美しく咲いていた。たった1輪でありながら誇り高く青空を見上げる向日葵を見て、私の心は打ち震え、自分の中にあった迷いを断ち切り、決意した。
死のう。
そんな私にあの電話がかかって来たことは、今まで悪行を働いてこなかった私への神様の慈悲だったのだろう。
「いやぁ、やらかしちった」
そうやって頭を掻きながら自分の失敗を笑い飛ばしているのは、私の唯一と言って良い友人の
「やらかしたのは車の運転手でしょ」
飲酒運転だったらしい。真夏の昼間から酒を飲んで車に乗り込んだ見知らぬ愚か者のせいで、海音は大切な体を傷付けられ、楽しい夏休みの時間を奪われた。幸い後遺症は残らないようだが、もし私が同じ立場だったら海音のように明るく振る舞えない。それでも、彼女は笑っていた。
「まぁそうだけどさ、お互い軽傷だったんだし、ここは笑い話にしようぜ」
「……意味わかんない」
海音は人を責めない。小学生時代からの腐れ縁みたいなものだけど、長年彼女を見てきて、そんな彼女の善性は知っている。ただ、理解はできない。今回なんか特にそうだ。すべての責任は相手にあって、被害者が自分なのに、なんでこんなにあっけらかんとしていられるのだろうか。
「そんな事より、私があげた向日葵はどんな感じ?」
「うん、今日見たら花が咲いてた」
「おぉ、それで、自分で育てた向日葵が咲いた感想は?」
「……綺麗だったよ」
「そっか。よかったな」
海音は私の答えに安心したように笑った。私があの向日葵を見た時と同じような安らかな笑みを浮かべていたからだろう。
あの向日葵は海音がくれたものだ。部活に入っていなし趣味もない私に育ててみたらどうだと、春に向日葵の種をくれた。何の品種かは知らないけど、たぶん初心者の私が適当に育てても咲いたのだから育てやすい品種なのだろう。
海音はずっと私のことを気にかけている。彼女は私の身に起きたことを全部知っている。あのことを知っているはずの大人はこそこそと何かを話すだけで何もしてくれないし、友達も扱いにくい私を見捨てていったけど、海音だけは私に手を差し伸べてくれた。
だから、海音には感謝してる。あの時すべてを投げ出して死んでいたら、後悔ばかりの苦しい死だっただろう。海音が傍に居てくれたおかげで、海音が向日葵をくれたおかげで、私は安らかに死ぬことができるのだから。
「ふぁあ~……」
「部活した後に怪我の治療だったんでしょ。無理せず今は眠ってなさい」
「そうさせてもらうよ。今日はわざわざお見舞いに来てくれてありがとな」
「別にいいわよ。私がやることと言えば花の水やりくらいだから」
「そっか。じゃあ、おやすみ」
「うん、おやすみ。…………ありがとね」
相当疲れていたのだろう。ベッドに横になった瞬間すぐに眠りの世界に落ちていった。そんな彼女の安らかな寝顔を確認してから、8年分の感謝を伝えた。私を苦しみしかない死を取り上げてくれたこと、私を安らかに死ねるようにしてくれたこと、私に死ぬ決意をさせてくれたこと、そのすべてに感謝して。
そろそろ帰ろう。そして、すべて終わらせよう。この胸の中にあの向日葵の感動が残っているうちに。そう思って病室の扉に向かおうとした時だった。
一陣の夏風が病室を吹き抜けた。
ふわりと病室全体が浮いたような気がした。反射的に風が吹いてきた方向に目を向けると、ベッドを隔てるカーテンがはためき、その向こう側が見えた。そこでこの世で一番美しい死神が微笑んでいた。
吸い込まれそうなほど青い夏空を背に私に微笑みかける銀髪の死神は、まるで世界を照らす太陽のように輝いている。あまりの美しさに彼女に目を奪われ、あの向日葵の感動の全てが上書きされた。
風が止んでカーテンが元に戻った後、私はあの死神に会うために閉じられたカーテンを一切の許可なく開け放った。
「おや、私に何か用事かな」
私の来訪を予感していたかのように、銀髪の死神は何もないはずのカーテンの方を向いて突然神域に侵入してきた私を出迎えた。
「あぁ、いや……綺麗だなって、思って……」
死神に誘われるがままやって来た私に具体的な目的なんてなくて、ただ私が死神の何に魅了されたかを言うしかなかった。
「ほぉ、なかなか面白いことを言うね。死にたがりのくせに」
ザクリと胸に刃を突き刺されたような感覚に襲われる。突然現れて意味の分からないことを言った私に怯むこともなく、それどころか私の抱えていた願いにすら気付いて見せた。この死神とは初対面のはずなのに、なぜ私の死にたいという思いを知っているのだろうか。もしかして、彼女は本当に死神なのかもしれないと、あり得ないことを本気で考えた。
「驚く必要はないよ。同族くらい判別できて当たり前だろ?」
「……あなたも死にたいの?」
「まぁいったん落ち着きなよ。はじめましてならまずは自己紹介だ」
銀髪の死神は落ち着き払っていて、胸騒ぎが止まない私とは対照的だ。死神はベッドの上に伸ばしていた足をおろして体を私に向ける。同時に彼女のベッドの上が見え、細やかで繊細な銀糸がシーツを覆い隠していた。彼女の体の動きに従って銀糸はふわりと動き、まるで天使の羽衣のようだった。
「私の名前は
「……
「向日葵、素敵な名前じゃないか」
花瓶に生けられた花を愛でるような優しい声色に心を奪われる。陽子の不敵な笑みはまるで超常的な見下ろしてくるような、触れられてもいないのに頬を撫でられたような感覚がしてブルリと肌が震えた。
「向日葵は太陽の方を向き続ける。そして花言葉も綺麗なものが多い。君の両親の想いが伝わってくるよ。それにあんなにいい友人を持っている。それなのに君は死ぬつもりなのかい?」
陽子の問いに指先がピクリと動く。彼女の言う通り、私に向けられる想いは夏の日差しのように力強くキラキラと輝いているだろう。でも、そんなことは私が一番よく分かっている。分かったうえで、私は死を選んだのだ。
「もし君が死んだらそこで寝ている彼女はどう思うだろうね。きっと、安心して眠ってしまったことを後悔し続けるだろうね。君に向日葵をあげた自分を呪うだろうね。君はそこまで想像したことがあるのかい?」
海音はみんなのヒーローだ。彼女が他人に向ける想いは温かくて、いろんな人を救ってきただろう。私にとってもそうだ。後悔しか残らない死を選ぼうとした私を止めてくれて、心安らかに死ねるまで私の心を癒してくれた。
そう考えた瞬間、今ここで陽子に出会った意味を理解した。
「……また来るわ」
「そうかい。きっと君の友人も喜ぶよ」
私は陽子と一緒に死ぬ運命なんだ。
一瞬で私を魅了したこの天使のように美しい死神は、きっと私の死をより安らかなものにしてくれる。そして、みんなのヒーローである海音の光を奪わずに済む。神様も海音ほどの善人が傷付くことは望んでいないはずだ。だから、私がより良い死を選べるように、海音が傷付かないように、こんなにも美しい死神を私に遣わせたのだ。
生きていてよかった。向日葵が咲いた日の幸運を天に感謝した。
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