第五話「変わらないモノ、変わっていくモノ」

 あの後、応接間に戻ったが会話内容を覚えていない。

 西園寺藍の「今日はもうお開きにしましょう」の言葉で我に返る。

 あの女から見ても極限状態に見えたのだろう。

 皮肉の一つも言われずに帰路についたが雨が降っていることを忘れていた。

 お陰で玄関で濡れ鼠状態。

 アリシアがいなければ廊下を水浸しにしていたところだ。

「何があったら雨を降っている中を傘をささずに帰って来るんですか?」

「夕食が楽しみでな」

「はぁ……先にお風呂に入ってください。さっき沸かしたので身体を洗っている間に湯船は溜まりますから」

「助かる」

 年下の婚約者様は既に新妻感を体得しておられる。

 このままいけば俺はダメ人間まっしぐらだな。

「お背中流しましょうか?」

「ああ……いいや」

「重症ですね。お風呂より病院のほうがいいでしょうか」

「どんな判断でそうなった」

 誘惑に負けそうになることが重症とはこれいかに?

「聞きたいですか?」

「いやいい」

「着替えは運んでいきますから」

「重ね重ねありがとな」

「私がやりたいからやるんです。もしお礼がしたいなら後で頭を撫でてください」

 そう言うとアリシアは二階へ上がっていく。

 本当に出来た婚約者だよ。


 ◆


 一応警戒していたがアリシアが乱入してくることはなかった。

 代わりに温かい紅茶を淹れてリビングで待っていた。

「もうすぐできますから」

「何か手伝うことは……」

「座っていてください」

「はい……」

 アリシアの言葉に何となく抵抗できなくなっている。

「……何も聞かないのか?」

「聞いて欲しいんですか?」

「どうだろうな」

 俺自身今の状態を上手く言語化できる自信がない。

「隼人さんと出会って約二ヶ月。少ない時間の中ですが私はこれでも理解しているつもりです」

 机に並べられた温かい料理は俺の好物ばかり。

 全て並べ終えるとアリシアは席につく。

「魂が抜かれたように見えることがあったんでしょう。気持ちの整理がつかないまま話を聞かれても困るんじゃないですか?」

 人が弱っているところにいい女ムーヴをしないでほしい。

 うっかり惚れ直すだろうが。

「俺のこと見すぎだろ」

「そこで『俺のこと好きすぎだろ』と言わないあたりが重症なんです。温かいうちに食べましょう」

「そうだな」

 よく慌てている人を見ると逆に落ち着くと言う人がいるが。

 それとは別に相手が情けないとパートナーがしっかりするようだ。


 ◆


 食べ終えていつものように食器を洗おうとすれ「座っていてください」と言われ、

 せめてもの恩返しとして風呂上がりのアリシアに膝枕をしようとすれば「今日はこっちがいいです」と言われてしまう。

 最終的にどうなったかと言えば俺がアリシアに膝枕をされて頭を撫でられていた。

「至れり尽くせりだな」

 脳が情報を処理しきれずに間抜けな感想しか出てこない。

 年上の男という概念が灰と化した気がするのは気のせいか?

「たまにはいいと思います」

「こんなことを常にされたらダメ人間になる自信しかない」

「それはいいことを聞きましたね」

 冗談ではなく本当にやりかねないアリシアの強さだけがギリギリのラインで踏みとどませてくれる。

 何とも難儀な話だ。

「先程の話の続きでもしますか?」

「俺自身わかっていないから破茶滅茶になるぞ? おまけにアリシアからすれば楽しくない話題だ」

「つまり紅葉姫とのことですか」

「なんでわかるんだ? エスパーか?」

「前にこういう前フリをしたのはあの藤棚を見に行った日ぐらいですから。それに今日のお昼は一緒だったことも知ってますからエスパーじゃありません」

「どちらかといえば探偵だったか」

「隼人さんの場合は真実は一つではなさそうですけどね」

 迷宮入り覚悟で話始めるのはいいが如何せん言えない内容が最重要なのでどう伝えたものか。

「前に依存について話しただろう?」

「ええ、確か私に夢中になるという話ですよね? 約束を果たすのはいつぐらいになりそうですか?」

「もうなっているだろうが」

「その割には今紅葉姫のことに夢中のようですね」

 撫でていた手が離れると頬をつつき始める。

 痛くは無いが若干話しづらい。

「思ったよりも重症だったようでな」

 鎮火したと思った灯火は消えてはおらず、少しの衝撃だけで簡単に燃え広がった。

「やはり一緒にお風呂に入るべきでしたか」

「今、理性が働かないから勘弁してくれ」

「隼人さんが私を大切にしていることはわかっていますからしませんよ」

「だからといって理性が働いているときにしてもいいとは言ってないからな?」

「たまに私が女性だと知らせておかないと」

「浮気する?」

「キスすらしてくれそうにないので」

「……俺は修行僧か何かか?」

「鋼の精神力という面では似たようなものです。まぁ、そのおかげで毎晩抱き枕にしてるわけですが」

 何度やめろと言っても朝起きたら胸を押し付けてくるだけでなく足を絡めるので大変だったが最近はそれが普通と思えるまでになっている。

「軽く抜け出せるなら誰も依存はしませんよ」

「普通ならいいが婚約者がいる身ではアウトだろ」

「私がセーフと判定しているからセーフなんです」

「昨日まで不安がってただろう」

「今日、千歳姉さんと話していた時に教えてくれたんです。隼人さんが私のことをお願いしたって」

 口止めをしていなかったが普通言うか?

「以前はしないとも聞きました」

「まぁ、そうだな。で、なんでそんな機嫌いいんだ?」

「わかりませんか?」

「まったく」

「私といることで隼人さんが影響されて変わったことが嬉しかったんです」

「アリシアを大切に思っただけだよ。そんなたいしたことじゃない」

「私にすればたいしたことなんです。こういう話を聞くと抱きしめられた時とは違う嬉しさがあるんです。隼人さんも似たような感覚があるんじゃないんですか?」

「まぁ、さっき料理を出されたときに大和の料理が並んでいたことは嬉しかったな」

 俺と婚約しなければ作るきっかけはなかっただろう。

 思わずそう自惚れてしまった。

「そうそう。そんな感じです。人はすぐには変われませんが変わらないわけじゃないんです。焦らなくても私はあなたから離れませんし、離しません」

「最後のメンヘラ発言は余計だろ」

「おや、ようやく調子が戻ってきましたね。なら、交代してください。さっき玄関で出迎えた分の支払いがまだですよ?」

 そう言われては起きるしかないので膝枕を交代していつもより頭を優しく撫でる。

「依存するのはいいですが浮気はダメですよ?」

「その区別の違いがわからないんだが?」

「では、わかりやすく」

 アリシアが急に身体を起こしたので手を引くと軽く口づけをして元に戻った。

「キスしたら浮気です」

「理性が働か無いと言った矢先にするなよな」

「知りません。ほら、手が止まってますよ」

「はいはい」

 今日のアリシアには完敗だな。

「あと……ちゃんと帰ってきてくださいね」

「不安か?」

「隼人さんの実力は誰よりも理解していますが戦争ですから」

「こんな可愛い婚約者を残しては死なないから安心しろ」

「帰ってこなかったら後を追いますからね」

「やはりメンヘラだったか……必ず帰るから」

「はい」

 指切りの約束もある。

 アリシアといれば無理に作らなくても死ねない理由が増えていく。

 本当はよくないんだろうが今はそれが心地良い。

「そういえば紅葉が今回のことが終わったら祝勝会開いてくれとさ。他のやつの胃袋掴んだアリシアのほうが浮気じゃないのか?」

「紅葉姫には隼人さんを紹介してくれた恩がありますから」

「そんな恩は今日のサンドイッチで返却済みだろう」

「こんなにいい婚約者を教えてもらったんです。全然足りませんよ」

「情けない婚約者なのに?」

「それも含めて愛していますから」

 紅葉に感謝しなければいけないのは俺の方だ。

 なんて言葉は言わなくてもアリシアには伝わっているんだろうな。

「俺もアリシアを愛してるよ」

 想いのお返しをすると予想外。

 ボンッと音がなったかのように顔を真っ赤にしながら頭から煙を出して顔を背けた。

「愛情の供給過多はダメです!」

 さっきまでのいい女は可愛いらしい婚約者に早変わり。

 思わず笑ってしまう。

「本当にダメか?」

「……ダメじゃないです」

「それはよかった」

 変わらないと思っていたことが変わっていて。

 変わったと思っていたことが変わっていない。

 よくある話だ。

「あ、思い出した。紅葉とお茶会した時に俺の何を聞いた?」

「な、何のことでしょうか?」

 紅葉のことだから俺が本当に話してほしくないことは言わないだろうがこの反応で何か聞いたことは確定。

 いつも寝ている時間まではかなりある。

 今夜の話題はこれで決まりだな。

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