第13球 夕日に映える君
「それじゃ、よろしくコーチ」
「あ、うん」
林野さんが帰ったので、月とまた二人きりになった。
バッティングについて相談があるって言ってたけど、月は練習試合で3打席3安打、打率は10割。バッティング練習が本当に必要なのか疑問だ。
僕が投げて、月が打ち返す。彼女は正確に柔らかいタッチで僕の真正面に打ち返してくる。もうそれだけでバッティングセンスは抜群、見習いたいくらい。こんなにバットコントロールができるのに悩みがあるなんて不思議。
「今度はできるだけ速めにお願い」
僕はキャッチャーとしてシニアでも強肩で知られていた。ホームから2塁への送球、いわゆるポップタイムは平均で2秒を切るかどうか。正確に計ったことはないけど、握り替えも含めてスローイングは時速120キロは超えていると思う。立ったまま投げる条件なら、もう少し速くなる。
なるほど、そういうことか……。
以前、野球部の1年生だけでバッティングセンターに行った時、85キロ、95キロ、110キロの3段階の変速機能と、80キロの縦カーブがランダムに投球されるバッティングマシンで、ミート力お化けの月が25球中7球しか奥の面に運べなかった理由がわかった。
考えてみたら110キロの球を奥の面に当てたのはたしか1球だけだったと思う。あまりにも他の球をきれいに当てていたから、この事実に気づけなかった。
ずばり月の弱点は速球。
遅めの変化球や少し外れたボール球でも簡単にミートできるが、速い球にはバットが全然追いついていない。
なんとかタイミングを合わせようとしているが、根本的な解決にはなっていない。どうして今まで気づかなかったんだろう。
聖武高校との練習試合では、エースが出る前に3本ヒットを打っていたけど、速球派の相手と直接対決を見てなかったから気づかなかったのかもしれない。
打てば打つほど自身の違和感に気が付いて、表情が硬くなってしまっていたのか。
最初に桜木さんと対戦した時は、かなりの球威だったが、その頃は投げ方が我流だったので、なんとか対処できてた。だが、投手として基本的な投げ方を覚えた桜木さんは、球がすごく走るようになっている。おそらく今、桜木さんと月が対戦したら、月は桜木さんの球を外野まで届かせるのは厳しいかもしれない。
原因はわかっている。
いわゆるドアスイングという腕を伸ばした状態でバットを振っているから、スイングスピードがそこまで出ていないのが原因。亜土みたいな怪力ならドアスイングでも飛ばせるだろうが、普通の女子には厳しい。おそらくテニスの振り方に近い方法で精度を高めてミートさせているんだと思う。しかし、矯正したら今のミート力が落ちるかもしれない。下手したらミート力だけ下がって、スイングスピードは変わらない場合もある。本当に矯正して大丈夫なのだろうか?
「ふぅーん、そういうことか」
「でも、フォームを直したら、せっかくのミート力が……」
「大丈夫、
そんなことできるの!?
忘れていた。
彼女が並の運動神経じゃないことを……。僕にはとても無理だが、月は30分ほど練習したら、すぐに鋭い振りのできる打ち方を覚えてしまった。
打っている時に硬かった表情が徐々に崩れ始めた。
美術室でのことを思い出す。月の表情だけが暗い表情しか思い出せず、笑顔が描けなかった。でも今なら自信に満ちた彼女らしい笑顔を描ける気がする。
「太陽、今日はありがとう」
「ううん、月の役に立ててよかったよ」
河川敷沿いを歩いて、夕日を眺めながら帰ることにした。これって、まるで恋人同士みたいな気分になれて幸せ。いや、むしろ幸せすぎて帰りにトラックに轢かれないか心配になってきた……。
「なにか聞こえない?」
「うん?」
特に何も聞こえない。
河川敷の斜面で夕日を見ているカップルや写真を撮っている大人、ジョギングをしている人、犬を連れて散歩しているおばさんなど、いろんな人がいるが、耳を澄ましても何も聞こえない。
「こっち!」
「──っ!?」
月に袖を引っ張られた。
僕は頭に血がのぼりすぎて、ちょっとめまいがしてきた。たぶん気が動転していると思う。
「ナー」
白黒タキシード柄の仔猫。
まだ母乳が必要なぐらい小さい。
草むらをかき分けた先に「県産マンゴー」と書かれた段ボール箱の中に一匹だけ取り残されていた。箱には「この子たちをどうか拾ってください」と無責任なメモが貼られていた。
月が青ざめた顔をしているのでどうしたのか聞くと、家が飲食店をやっていてペットを飼うのだけは禁止にされているとのこと。
「じゃあ、僕の家で引き取るよ」
「ホント! でも家の方は大丈夫?」
それは問題ない。
我が家は全員猫好きだし、先代の猫が老衰で亡くなって寂しいけど、新しい猫を迎えるきっかけがなかっただけだから。
段ボール箱を抱えて、家に連れて帰ることにした。
月が手を伸ばして、頭や首を優しく撫でるとコロコロと喉を鳴らす姿がとてもかわいい。
「猫ちゃんって、コロコロ言うんだね?」
「いろんな性格の子がいるから、一括りにはできないけどね」
人懐っこそうな猫だ。初対面でコロコロ喉を鳴らすのは珍しいかもしれない。
「コロって名前にしようかな、家族に相談してみるよ」
「うん、コロちゃんって名前、すごくかわいい!」
──うっ。
いつもの笑顔と違う。
雲に隠れてた夕日が真横から薄く差し込んでいる。
その淡い夕日に零れ出るような優しい笑みを浮かべた僕が一途に想う女の子が照らされている。
急に胸の鼓動が速くなった。
ずっと彼女に憧れていたが、この湧き上がる感情の正体が僕にはわからない。
劣等感、挫折、無力感、自己嫌悪。
これまで味わったみじめな経験から生まれたそれらは僕の心に深く刺さって抜けなくなってしまっている。
その感情に振り回され、どこまでも自分を卑下して、
「あ、うん、コロって名前かわいいね」
あぶない。
今、なんか、心の声が漏れそうになった。
いつも浮かべている笑顔は、明るく親しみやすいが、それは月の通常モード。それに対して今、見せたのは喜びを素直に表していて温かみを感じる優しい笑顔。
雲から夕日が顔を出して、まぶしさを取り戻したが、僕には月の初めて見せた優しい笑顔が一番まぶしい。
それからずっと仔猫の話ばかりをして、月の家の近くまで来た。
「ねえ、太陽」
「どうしたの?」
月が急に真剣な表情になったので、僕も何事かと気を引き締めた。
「SNSの連絡先を交換しない?」
学校の方針で、生徒を犯罪から守るためにSNSアカウントにセキュリティをかけるよう指導されている。そのため、連絡先がわからないクラスメイトなどのSNSは見れなくなっていて、連絡も取れない。
月は、仔猫の画像を送ってほしいと言っている。僕は仔猫に感謝しつつも、喜びはしゃがないよう冷静さを保ちながら、初めて女の子と連絡先を交換した。
「ただいまー」
「お帰りさない、おにいさま……おにいさま?」
家に帰って3秒で妹の
浮かれている自分が恥ずかしいので、仔猫を連れてきたから舞い上がっているとごまかしたら、うまく海を騙すことができた。
海は僕と月の2学年下で、中学校の絶対的アイドル、天花寺月のことを知っている。連絡先をゲットしてこいとは言われていたが、まさかこの情けない兄が本当にSNSの連絡先を手に入れて帰ってくるとは夢にも思っていないだろう。
海に仔猫を任せて、さっと私服に着替えてすぐに家を出た。仔猫はまだ小さいので猫用のミルクを買わなきゃいけない。
近所のスーパーにはキャットフードは置いてあるけど、猫用ミルクは置いてない。2つ隣の大きな街にペットショップがあるので、自転車で最寄り駅に向かう。
あれは、桜木さん。
今日はいつも一緒にいる喜屋武さんと安室さんがいない。
駅のホームで、隣の列に立って待っているが、私服のせいか僕に気づいてないみたい。だからってわざわざ歩み寄って話しかけるほど、僕の性格はオープンじゃない。
夕方の帰宅時間と重なっているが、今日は割と電車の中は空いていた。すぐに座れたが、同じ車両で隣のドアから乗った桜木さんは座れず吊り革に掴まって立っているのが見えた。
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