3
時は少しだけ遡る。
狡猾なワームの討伐から帰ってから、クロエ・カイルは、ずっと焦っていた。
クロエはワームの討伐では、何も仲間の役に立つことが出来なかった。
「いつも、サラには助けてもらってばかりいる……」
クロエは、学生寮の、狭い自室の簡素な机に向かいながら、溜め息をついた。
いつもポニーテールにしているサバサバしたストレートのブロンドに、強い意思の籠った深緑の瞳――クロエには、サラが眩しかった。
サラはいつも、カイル家の長女として育てられたクロエと、フリースラントの商家の長女として、伸びのび育てられたサラとを比べて、クロエのことを尊重してくれているけど、サラは、本人が思う以上に、才能溢れる術士だ。
何よりも彼女の勇敢さと言ったら……。
誰にでも、真似できることではない。
クロエがグズグズと悩んでいる間に、自らの危険も省みず、颯爽とワームの竜鱗に刃を突き立てたサラは、潔く、カッコ良かった。
慎重な自分には、あんなことは絶対に出来ない。
あの場でもしサラが死んでいたら、クロエはチネか、エドガーを犠牲にして、残る人員を逃がすしか出来なかったかもしれない。
情けない……。不甲斐ない自分。
試合でも、アルバートの王子に負けっぱなしだ……。
――いつでも僕のことを喚んで。そうすれば君は人間の力を遥かに超える紺碧の力を身に付けることが出来るよ 。
暗く沈んだ心の中に、たった一つの希望のように、残されているのは、アルファトスの囁いた言葉だった。
『人外の存在』が、わざわざ他の誰でもなく、クロエに目を掛けてくれている。
それは、暗く沈んだクロエの心に、恋愛にも似た甘やかさを与えてくれる言葉だった。
どんなに自分が情けなく、不甲斐ない小さな存在だったとしても、アルファトスの存在が、サラ・オレインとも、アルバートの王太子とも違う、他人とは違う『特別な存在』に、自分を押し上げてくれるような気がしていた。
「アルファトス……」
クロエは、美しいその名を舌の上で転がした。
その名を口にするだけで、胸の奥がぎゅっと痺れるような心地がする。
もう一度、会いたい。
彼にもう一度、触れてもらいたい。
お願い。神様。彼に、もう一度、会わせて。
信心深さど持ち合わせていなかったはずのクロエが、生まれてはじめて、神様の名前など口にして、深く祈っていた。
とんとん……。
クロエははっとした。
寮の小部屋の、東側の壁に一つだけある小さな窓が、ノックされている。
とんとん……。
風の音……?
それにしては、はっきりと、人為的なものを感じさせる音だ。
クロエは席を立ち、恐る恐る窓辺へと向かった。
心臓が、とくとくと静かに鳴っている。
曇ったガラスの向こうは暗く、様子を伺い知ることはできなかった。
アルファトス……?
心の中だけで、小さく囁いた。
だって、ここは、女子寮の『五階』なのだ。
窓には申し訳程度に小さく張り出し部分があったが、とてもよじ登れる高さではない。
こんな窓を、叩けるとしたら、それは人間ではないだろう。
クロエは思いきって、窓を開け放った。
ユーシス・クローディア……?
一瞬、サラの幼馴染みの名前が浮かんだ。
違う。雰囲気は似ているけど、よく見ると全く違う。
静かな光を湛える空色の瞳が、ひたとクロエを見詰めている。
サラサラとした白金色の髪は、肩の上で綺麗に切り揃えられている。少女かとみまごうような、中性的な美しさを保つ面差し。
「天使……?」
クロエは、知らず口にしていた。
彼には事実、翼があった。
天使は薄く微笑んで言った。
「クロエ・カイルだね。よろしければ、お部屋に入れてくれませんか?」
そう、質問しながらも、有無を言わせない態度で彼は部屋へ押し入ってきた。
真っ白な光を放つ翼を器用に折り畳みながら。
「こ、こ、困ります……!」
クロエは慌てた。
条件反射だった。天使に向かって「困ります」もないものだ。でもここは、女子寮なのだ。男性を部屋に招き入れたなどと言うことが、誰かに知られたら大変なことになる。
くす……。天使は戸惑うクロエを見ながら笑った。
「わたしは純粋無垢な乙女です……って、顔だね、クロエ・カイル」
クロエは背筋が冷たくなるのを感じた。
優しく微笑んではいるが、空色の瞳はどこまでも冷たい。厳神が宿っているかのように、厳かな威厳に溢れている。
そして何よりもその呪力の色。
心を洗い清めるような純白だ。ほのかに金の光を帯びたような白の中の白。こんな色の呪力は見たことがない。
「人間じゃ、ないよ。私も、スフィンクスのアルファトスも、ね」
天使はクロエの心を見透かすように言った。
クロエは知らずその場にへたり込んで居た。
腰が抜けたのだ。
そんなクロエを見下ろすように佇んだ天使に、厳しい瞳で見据えられる。
「我が名は【熾天使アヴァロン】と言う。その名の通り、神の遣いである」
そなたに忠告する――熾天使アヴァロンはびしりと言った。
「そなたは、他の生徒に抜け駆けて、アルファトスの『至高の呪力』に手を出すつもりか……?そんなものに手を出して、競争に勝ったところで、そなたは嬉しいのか?」
クロエの心の痛いところを適格に突かれる。
アルファトスに力を与えてもらえれば、誰よりも強くなれるかもしれないと心をときめかせていたクロエだった。
そしてたしかにそれは、純粋な勝負とは言えない。
「ククク……それとも、そんな清純そうな顔をして、アルファトスの色香に唆されたのか?」
純白の天使はクロエの顎を乱暴に掴みながら言う。
天使の言葉は、どこまでも厳しかった。
「スフィンクスは叡智の象徴だが、同時に獣の本性も併せ持つ。ククク……身悶えしていたのだろう?随分とふしだらな女だな、クロエ・カイル。自分があの狡賢いスフィンクスに、すっかり騙されているとも知らず……」
天使はクロエを追い詰めるように高らかに笑い声を上げた。
「愚かなそなたのためを思って忠告するぞ、クロエ・カイル。アルファトスはお前をたぶらかし、『至高の呪力』を対価に、そなたを食い物にしようとしているだけだ。その清純な身体を、取り引きに使うつもりか?クロエ・カイル……!」
雷に撃たれたようだった。
叱られた子どものように、クロエは目尻から涙が零れるのを止めることができなかった。
本当なの……?
初めて会ったのは、クロエがまだ十歳の時だったと言うのに……?
あの、心を蕩かすような紅茶の飴の味は……?
「うっ……うっ……」
クロエはいつまでも、嗚咽していた。
そんなクロエを置き去りに、天使は夜の空へと飛び立って行った。
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