6.脅威の影
山の麓にたどり着くまで、十日ほど。
初めはそれと気付かなかったが、いつの間にか地面が平らではなくなっていた。
手頃な樹に登って周囲を見渡してみると、前方の山は間近にそびえ立ち、後方はかなり下っている。
そうか、ここはもう山の一部なのか、と思い当たる。
そこから先は傾斜が急激に角度を増し、さらには崖や谷に幾度となく行く手を阻まれ、迂回をよぎなくされる。
そうして進むうちに次第に木々生え方がまばらになっていき、ついに森が尽きた先には、岩だらけの急斜面が待っていた。
「炎の河の岩場と似ているな。もしかして、この先にも地の裂け目があるのだろうか」
だが捷気の風は感じられず、地鳴りの気配もない。
立ちはだかる山肌を見上げているうちに、なにやら不安がこみ上げてきた。
山の向こうに何があるのかを知りたい気持ちは、もちろんある。
でも、もし苦労して登り切った挙句に、この味気ない景色が延々と続いているのだとしたら。
しばらくの間、そうして途方に暮れていたヴィーラグアであったが、ふとあることに気付いて、辺りを見渡した。
「そうか、この広さなら」
こんな坂は、わざわざ歩いて登るよりも一気に飛び越えてしまえばいい。
背中に意識を集中し、翼を大きく広げる。かつて背負っていたそれよりも大きく、母の姿を懐かしく思い浮かべながら。
「こんな感じかな」
二度、三度と羽ばたかせてみると、身体が軽くなったような気がする。
よしこれならと、大気を叩き付けるように思いきり打ち据え、同時に地面を蹴った。
翼が風をとらえ、身体がふわりと浮く。
だが次の瞬間、両脚はふたたび地面を踏みしめていた。
「あれ?」
もう一度、今度は助走しながら激しく羽ばたかせ、思いきり地面を蹴る。でもやはり飛ぶというには程遠く、むしろ走った距離の方が長いくらいだった。
それから、翼をより大きくしてみたり激しく羽ばたいたりと繰り返し挑戦してみたが、やはり思うように浮くことは出来ない。
いったい、何が間違っているのだろう。
と、自分の中にある鳥のゴウラを探ってみると、身体の大きさや構造があまりにも違いすぎて、むしろこの巨体では飛べないことがわかってしまった。
ならばと、母のゴウラを呼び醒ますと、なにやら悠々と大空を飛翔している様子は浮かんだものの、具体的な方法は判然としない。
対話の記憶を掘り起こしても、空の旅の話は何度となく聞かされていたのに、肝心な飛び方については何もなかった。
こんなことなら詳しく聞いておけば良かったと、いまさらながら落胆した。
「そうか、鳥はまさに鳥であるからこそ、空を飛べるんだな。まさか骨の構造まで違うとは。
今の我では、変体しても完全に再現できるとはとても思えない。
こうなったら、片っ端から喰らいまくってゴウラを取り込んでやるか」
そうつぶやいて、森に向かおうとした時だった。
ふと視界の隅に映った小さな影に気付いて顔を上げたヴィーラグアは、大空の彼方に浮かぶ数個の物体を見つけ、溜息をついた。
「鳥か、いいなあ」
見つめる先は、思った以上に遠い。時おり捷気の雲に隠れるところをみれば、地の裂け目すら越えた遠方であることが判る。
ということは、かなり大きい。しかも……。
彼の驚異的な視力があればこそ見つけられた小さな黒い点は、さらに眼を凝らすと、鳥とは少し形状が異なることが判った。
「鳥じゃない……、とすると」
次の瞬間、その正体に気付いて戦慄した。
「あれは龍だ、間違いない。母が飛ぶ姿を見たことはないけれど、翼を広げ身体を自由に伸ばせば、あれと同じ格好になるはず……」
しかも、一体ではない。
敵か、味方か、あるいは獲物か。そういった警戒心を完全に忘れて、ヴィーラグアは彼方に浮かぶ小さな黒ずみに、しばし見とれた。
だが突然、身を貫くような視線が返されたのを感じると、反射的に岩陰に飛び込んだ。
錯覚か? いやそんなはずはないと、ゴウラが告げている。
相手は確かにこちらの視線に気付いて、警戒の眼を向けてきたのだ。
まさか、こんな遠くにいるのにそんなはずは……、と考えかけて思い直した。
こちらから向こうが見えるのだから、その逆があっても不思議はないのだ。
いや、だからといって、何もない空の上を飛んでいるのと岩場に紛れているのが同じはずがない。
でも確かに、自分は見つかった。
混乱の中、自分に向けられた視線を思い返す。
敵意こそ感じられなかったが、そこに込められた強烈な意思は、母の温かな眼差しとは全く違う覇気を備えていた。
遠く地平の彼方から届いたそれに、彼は初めての感情を憶え、岩陰に隠れただただ身を震わせ続けた。
そう、ヴィーラグア・ベデルガは恐怖したのだ。
彼は、生まれて初めて憶えた『恐怖』という感情に、恐怖した。
知らないはずはないのだ。なぜならそれは、これまで喰らってきたすべての獣たちが彼に向けて放っていた、ゴウラの叫びそのものなのだから。
だが彼は、それが意味するところを理解していなかった。
のがれる隙も抗うすべもなく、絶対的な暴力の虜囚となり肉体の欠片も残さず喰らい尽くされる。
これまでの自分は、それをする側だった。
この時はじめて、される側に立った自分の姿を想像して、絶望に打ち震えた。
それからしばらく経っても、相手がこちらに向かって来る気配は感じられなかった。
だが、たったあれだけのことで消耗し切ってしまった彼は、立ち上がる勇気すら持てず、日が暮れるまでその岩陰で過ごした。
暗くなった頃になってようやく腰を上げたヴィーラグアは、森へ入り身体を休めた。
猛烈な渇きが喉を灼いていたが、水場を探すこともしなかった。
もはや彼には、何をする気力も残っていなかったのだ。
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