5.世界にまみえる
ヴィーラグアを背後から襲った影は、正面に降り立つとふたたび襲いかかろうと身構える。
それは彼と較べればおよその半分くらいの大きさの、四つ足の獣だった。
体型はどことなく自分に似ているが、全身を覆っているのは硬皮ではなく、赤みをおびた剛毛だ。堅そうではないが、しなやかさに優れているように見受けられる。
その長く鋭い牙が、鮮血で濡れていた。
驚愕が冷めやらぬまま、身の安全よりも好奇心が勝ったヴィーラグアは、こちらを睨みつける獣をじっと見つめ返す。
というよりも、しげしげと観察していた。
首の傷は深かったが、意識を集中してふさがれと命じるだけで、すぐに閉じた。
獣を見つめる彼の視線には、何の感情も含まれてはいない。
だが野生界において、相手を正面から見据えるという行為は、絶対的な敵意の表明に他ならないのだ。
むろん、獣の方は初めから敵意しか持っていない。
だが同じ意思を、自分に倍する体躯を持つ者から向けられた時、より小さな者は、逃走か反撃かの二択を迫られることになる。
降伏は、死と同義だ。
獣が選んだのは、言うまでもなく反撃だった。
自分の与えた傷が一瞬で消え去った様子は、獣の眼にも映っていたはずだったが、それでも躊躇することなく再び挑みかかる。
対するヴィーラグアは無造作ともとれる、だが圧倒的な反射速度で前肢を繰り出し、その首元をつかみ取った。
「ガウッ! ギャウッ!」
「逃げるばかりでなく、向かって来る者もいるのか。そうか、これが敵か」
死に物狂いで暴れる獣は、ヴィーラグアが右手に力を込めると微かな断末魔を漏らしたのち、動かなくなった。
物言わぬそれに頭からかぶりつき、食いちぎる。嚥下するとやはり、ゴウラの香気を感じた。
しかもこれまで食した虫や小さな獣と違ってより明確に、意識にも似た感覚が伝わってきたのだ。
これは、身体の大きさに関係しているのだろうか。
丸呑みにもできたが、あえて時間をかけてじっくりと味わう。
最初に感じたゴウラの気配は時間が経つにつれ急激に薄れ、半分ほど喰らった頃にはほとんど感じられなくなっていた。
母はもとより、兄弟たちの体躯はこの獣の半分にも満たぬ大きさだったが、いずれもゴウラの気配は最後の一片まで薄れることはなかった。
とすれば、ゴウラの強さと身体の大きさは無関係なのだろうか。
地の裂け目を発ってわずか一日も過ごしていないのに、望郷の想いがこみ上げてくる。
彼にとって、兄弟たちを喰らい続けた日々は、家族と過ごした時間でもあったのだ。
腹がくちくなると、もはや動く意欲も失せてしまった。
ヴィーラグアはその場に身を伏せ、日暮れとともにおとずれる
母の思い出に、ひたりながら。
―――※―――※―――※―――
翌日は、初日と同じように森を進んだ。
とくに目指す場所があるわけでもなく、急ぐ理由もない。とりあえず、この森が尽きるところまで行ってみることにした。
母との対話によって、世界が一生かかっても回り切れないほど広大だということは知っている。
でも地の裂け目から続く岩石地帯はわずか一日足らずで途切れ、森が現れた。だからこの森もその程度の広さなのだろうと、漠然と考えていた。
ヴィーラグアは気まぐれに草や虫を捕えながら、無心に進んだ。
時折、小さな獣を見かけることもあったが、昨日のような大型の者が襲いかかって来ることはなかった。
小さな獣は動きが速く、逃げ回るそれらを捕まえるのは難しい。ヴィーラグアは苦心のすえ、単に動きを眼でとらえるのではなく、ゴウラの気配を追うことを憶えた。
木々の間を飛び交う、翅虫とは異なる者もいた。
奇妙な声を放つその小さな獣は、どうやら左右に広げた膜のような前肢をたくみに操り、風をとらえているらしい。記憶の中から「鳥」という言葉を探り当てた。
どうにか捕えようとしたが、頭上のはるか高みを飛び回るそれには、さすがに手が届かない。だが観察を続けるうちに、その形状が自分の背にあるものとよく似ていることに気付いた。
(翼……そうか、これを使えば、我もあのように飛べるのか。そういえば、母の翼はとても大きかった)
とはいうものの、この森の中では自分の身体に見合う十分な空間がない。
広い場所へ出たら試してみようと決めた。
小さな川があった。
だがそこを流れているのは、地の裂け目にあった赤い炎ではない。
(これは、水なのか)
ヴィーラグアにとって水といえば、空から降る雨粒か枝葉に結ぶ夜露くらいの小さなものだ。これほどまでに大量の、しかも透明な水が絶えることなく流れ続ける様子に、彼は素直に感動した。
(なんて美しいんだ……)
美しい? その言葉も初めて用いる。
でも自然に浮かんだその言葉こそが、この気持ちを表すにふさわしいに違いない。
(我のゴウラの内にあるのは、母から得た知識だけではない。それがどこから来たものかは、今は考えないことにしよう)
水面近くまで顔を寄せ、しばらく観察する。それから前肢で水をすくい上げ、口に含んでみた。
味も匂いもまったくない。
その冷たさと、スルリと喉を通り抜けていく感触にえもいわれぬ心地よさを憶え、気付いた時には顔を水面に直接ひたして夢中で飲み続けていた。
(なんということだ、全身に水気が行き渡って行くのを感じる。我が身は、これほどまでに水を欲していたのか)
ヴィーラグアはこの時初めて、『飢え』とは違う『渇き』という感覚を知ったのだった。
―――※―――※―――※―――
それから幾日が経ったか。
進めども進めども森が尽きる気配はなく、変わらぬ景色が続く。
(世界は果てしなく広いと、母は語っていた。たしかに広いが……)
彼は変化のない道行きに、さすがに飽き始めていた。
森の中には、様々な生き物が棲んでいた。ヴィーラグアは手当たり次第にそれらの獣を捕獲しては喰らい、ゴウラを取り込む。
それにより、獣の持つ性質を己のものとすることが出来る。また同種の獣であっても、一度の捕食よりも二度三度と喰らう方が良いことも判ってきた。
ついには鳥すらも、石を投げつけるという方法を思いつき、試行錯誤の末に捕えることができた。
鳥のゴウラを取り込むことにより、翼の使い方も知ることができた。
そうして、少しずつではあるが様々なことを学習しつつ、前進を続けていたある日のこと。一本の巨大な樹と出会った。
(すごいな、てっぺんが見えない。待てよ、この太さなら)
幹に爪をたて、よじ登ってみる。巨木が自分の重さに充分耐えられることを確かめると、一気に駆け登った。
頂上近くまで登りつめ、周囲の木々を見下ろす高さに達したヴィーラグアは、そこからの眺望に息を飲んだ。
「これが、世界か」
思わず、声が漏れた。
「これが、世界か!」
何処までも続く森の緑と、果てしなく広がる空の蒼。
降りそそぐ光の源を探ると、天空の一角に、眼がつぶれそうなほどの強烈な輝きが浮かんでいるのを見つけた。
「あれが太陽か!」
翼を広げ大空に飛び立つ衝動に駆られたが、辛うじてそれは思いとどまった。
練習もなしにそんなことをして、しくじったら大変なことになる。
この高さから落ちたら、いかに自分の身体が頑丈といえど、ただではすまないだろう、と。
ヴィーラグアは冷静さを取り戻し、改めて壮大な景色を堪能した。
「すごいな、この全部が世界なのか。本当に果てが見えない。いや、あれは……」
地平の彼方に、巨大な連なりが見えた。『山』『山脈』という言葉が浮かぶ。
方位の知識も母から学んでいる。太陽の位置から、自分が向いているのは北の方角であることも知った。
「とすると……」
ヴィーラグアは後ろを振り返った。今や懐かしささえ憶える我が故郷、地の裂け目は南の方角か。
そちらの地平は赤黒い捷気の雲に覆われ、かすんで見える。対する北の山脈は澄み切った青に染まり、空に溶け込むようだ。
「よし、あそこまで行ってみるか」
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