4.旅立ちの森へ


 母と兄弟、すべての屍を喰らい尽くした後、光の子ヴィーラグア・ベデルガは、母の言葉に従い、棲み処であった大地の裂け目を後にした。


 彼は、一度だけ振り返る。

 そこには母と九十九の兄弟がたしかに存在した証が、岩地の上に黒い染みとして残されていた。

 だがその痕跡も、やがて風に吹かれ砂に覆われて消えてしまうのだろう。

 二度と見ることのないこの景色を、決して忘れまい。

 そう心に誓って、強靭な四肢で大地を踏みしめ、新たな世界へと向かう最初の一歩を踏み出した。



      ―――※―――※―――



 目に映るのは、捷気に煙る赤い闇と、煤けた岩場のみ。

 単調な景色が続く。

 歩くという行為自体を初めて体験するヴィーラグアは、四肢を操り移動するという、ただそれだけのことに新鮮な喜びを感じながら、飽きることなくひたすら前に進んだ。

 だがしばらく歩いているうちに、しだいに違和感を憶え始めた。


 それは、背中から生えている一対の翼。

 母にも同じものが備わっていたが、母のものが大きく威厳に満ちたものであったのに対し、自分のものは中途半端な大きさで形も不格好だ。

 ヴィーラグアは、それが何の役割を持つものなのかを知らなかった。

 煩わしく感じた彼は、より小さくなれと命じた。


 これまでの経験から、身体の形状はある程度操れるとわかっている。

 翼を縮め、でも完全に失くしてしまうのは少し寂しい気がしたので、飾り程度の痕跡を残すことにした。


 やがて、周りの景色にも少しずつ変化が見え始める。

 捷気の風が弱まるとともに、周囲に薄霧がたち込めてきた。

 霧に阻まれて遠くの景色は見えず、炎の河からこぼれる紅い溶光もここまでは届かないため、大気はくすみを帯びてくる。

 ふと足元を見ると、地面から石とは違う何かが生えていることに気付いた。

 ヴィーラグアはこれまで、岩と母と屍以外のものをほとんど見たことがない。

 しいて言うなら、天から降る不思議な水(母はそれを雨と呼んだ)と、風と、雷光、それから雲の彼方にぼんやりと映る太陽。

 そのどれでもない奇妙なものが、岩の隙間から顔をのぞかせていた。

 色合いは石と似通っているがそれほどの固さはなく、どちらかというと屍の感触に近い。枯れ果てた細骨のようだ。


 母は様々な世界の物事について語ってくれたし、言葉とともに形や意味を意識で伝えてくれた。でもそのほとんどが、実際に眼にしたことのない幼子には実感をともなうものではなかった。

 進むに従って足元のそれは次第に数を増し、なおかつ形状も変化して、柔らかさと色彩をまとい始める。

 紅と灰以外の色を知らない彼にとって、初めて目にするその色味は新鮮な驚きをもたらした。

 さらに彼方を望むと、薄霧の先に、見上げるほど大きな何かが地平を覆っているのが見えた。


(もしやこれは、草。遠くに見えるあれは、木……なのかな)


 ヴィーラグアは記憶をたどり、母の言葉とその意味を探った。

 脚を止め、座り込んで草の一本をむしり取ってみる。

 柔らかい茎は、軽く引っ張るだけで簡単にちぎれてしまう。ためしに口に含んでみると、屍肉とはまったく異なる食感と、不思議な香気が口の中に広がった。

 反射的に吐き出してしまったが、口の中に残る感触が決して不快なものでないことを、彼は知った。


(食えるの……か。肉と同じだ)


 進むにつれ、辺りを覆う草の丈はさらに高くなり、頭を越え始めている。ヴィーラグアは上体を起こし、二本の脚で立ち上がった。


(この方が過ごしやすいな)


 初めはぎこちなく、やがて悠々と、ヴィーラグアは歩み始める。

 身体の形状もそれに適したように変化させた。

 やがて、木々が立ち並ぶ境目に達した。


(木がたくさん生えている。これは、森)


 奥を覗こうとするも、生い茂る枝葉で陽射しがさえぎられ、そのうえ薄霧が立ち込めているため、見通しはあまり良くない。

 ヴィーラグアはわずかに躊躇したものの、まあ何とかなるだろうと、前肢で枝葉をかき分けながら前に進んだ。

 ふと手に触れた小さな葉をちぎり取り、口にしてみるが、苦みと不快な舌触りに思わず吐き捨てた。


(これは、木の葉。石と同じだな)


 草は食えるから、肉と同類。木の葉は食えないから、石の仲間。

 彼はこの世に生を受けてからこれまで、食事以外の行為をしたことがない。物事の判断基準が偏ってしまうのは仕方のないことだった。


 木々の間を飛び回るものを見つけた時、一瞬眼がおかしくなったのかと思った。

 それは掌ほどの大きさの、翅虫だった。森に生息するとくに珍しくもない生き物だったが、初めて目にするヴィーラグアは、興味をそそられずにはいられない。

 さほど敏捷ではないそれが、樹の幹にとまったところを苦もなく捕らえると、しげしげと観察した後、口に放り込んだ。


(ふうん、肉と草の間みたいな奴だな)


 さほど固くもない外殻と翅の食感は草や葉に似て、だが中に詰まっているのは肉のような何かだ。汁気の多さは屍肉の及ぶところではない。

 ヴィーラグアは記憶の中から、これを表す言葉を探ろうとする。


(虫……とかいうやつかな)


 十分に味わったそれを嚥下したその時、ヴィーラグアは不思議な感覚が体内に広がるのを、感じた。


(これは、ゴウラ?)


 ごく微かではあるが、兄弟や母にあったものと同じに間違いない。

 その物であり、その者である。本質であり、魂。

 肉は溶け消えて我が身と一つとなり、ゴウラもまた我がゴウラの一部となる。今この時、自分とこの者は一つになった。

 ならば。

 右の前肢を眼前にかかげ意識を集中すると、指先の一部が葉の色に変化し、さらに念を込めると皮膚の表面が剥がれ、小さな翅の形になった。

 ヴィーラグアは軽く笑って右肢を振る。

 変化はすぐに元通りになった。


 森の中には、様々な形状をした生き物がいた。

 ヴィーラグアほど大きな者は見当たらず、指先かせいぜい片手でつまみ上げられる程度の小者ばかりだ。

 ただし、固い外殻を持つ者の他に、自分や兄弟たちのように内部に固い骨を備える者も少なからず発見した。

 食してみると、まごうことなき肉の味だ。仲間を見つけたような気分になり、嬉しさがこみ上げる。


(この先には、もっと多くの生き物がいるのだろうか。我の、本当の仲間となる者が)


 そして、敵となる者もまた。

 だが怖れはない、この世界に自分を害することが出来る者などありはしないのだ。

 彼のゴウラは果てしない好奇心に満たされ、前進する喜びのみが彼を突き動かす。

 そこに、油断があった。


 後方から音もなく飛びかかった影が、彼の喉を掻き切った時、ヴィーラグアは自分の身に何が起こったのか理解できず、眼下にほとばしる鮮血をただ茫然と見つめるのみだった。



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