3.揺籃の日々
母は、兄弟全部を喰らい尽くすまで幾日と言ったが、最初の一つを消化するだけで何日もかかってしまった。
小さき者は己の身が軽くなったのを確認すると、次の一体を喰らい、また幾日もの微睡に身を委ねる。その間に、母は我が子に様々なことを語りかける。
そうして日々を過ごした。
小さき者が口にするのは、堅く枯れた兄弟たちの屍のみ。
でも渇きはなかった。
なぜなら、時折どこからともなく水が降りそそいで、辺り一面を濡らしたから。
「雨は天の恵み。単に渇きを癒すだけではない、この雨粒には
「捷気とは?」
「炎の河から溢れ出ずる、我ら種族の活力の源。
私たちがいるのは、地に刻まれた大いなる傷口のほとり。この底に覗き見える炎の河は、じつは河などではなく、世界のはらわたそのものなのです。
捷気は大地の息吹。
それは風となって世界をめぐり、雨と共にふたたび降り下り地に力を与える。
我ら種族は捷気を体内に取り込むことによって、世界の理を我がものとするのです」
「母の言葉には、奇妙な昂りを憶えます。種族とは? この世界にいるのは、母と我だけではないのでしょうか」
「ええもちろん。私達と似た者やまったく似ていない者、さまざまな形や大きさを持つ者がたくさん、幾万も幾憶も群れつどい、生を営んでいます」
「それほどに多くの者が、いったいどこに」
「世界のあらゆる場所に。ですが、それら全てを仲間と思ってはなりません。
生きるためには喰らわねばならない。多くの者はあなたを喰らおうとする敵であり、同時にあなたが喰らわねばならない獲物なのです」
「敵……、獲物……」
「もちろん、仲間となる者もいます。
ただしそれらの者も常に仲間であるとは限らず、あるいは敵や獲物であった者もまた、ときに仲間となります。
あなたはいずれこの地を出、旅立たねばなりません。そこで生きるためにやらねばならないのは、他者を見極めること。
よいですね、決して母の言葉を忘れぬよう」
「はい」
「この場所は、世界の中心であるとともに世界の果てでもある。私以外に何人も立ち入ることの出来ぬ、絶界。
ここで子を産み、育て、世界に解き放つ。それが私の使命なのです」
「では、我の使命は? 我は、こことは違う世界で何をすべきなのでしょうか」
「それは、あなた自身が決めること。いえ、おそらくあなたはもう知っているのでしょう。
いずれあなたは、自分の中にある自分に気付くはず。その時を楽しみに、ただただ生きなさい」
母の語りかけはとりとめなく、いつまで続くとも知れなかった。
その響きは例えようもなく心地良く、
―――※―――※―――※―――
「あなたに、名を授けましょう」
ある日、唐突に母が告げた。
「名、とは?」
「あなたと他者を区別し、あなたが何者であるかを世界に示す
「我は、母の子ではないのですか?」
「その通り、でもその言葉はあなたひとりのものではない。ここに横たわる兄弟すべてが私の子なのです」
「兄弟たちはみな我が喰らいます。我らはひとつとなる、世にただ一つの母の子です。
我はこの後もずっと、母の子でありたい」
しばしの沈黙ののち、母は静かに口を開いた。
「わかりました、それがあなたの望みであるならば。
あなたこそ私が待ち望んだ光。愛し子を表す古き言葉『ヴィールビィ』と、輝きを意味する『アグア』を合わせ、光の子『ヴィーラグア』と名付けましょう」
「光の子、ヴィーラグア。とても素晴らしい名です」
名を授けられた小さき者は、ふと気付いて訊ねる。
「母よ、母にも名があるのでしょうか。もしあるのなら、教えて欲しい」
「私の名はベデルグ、北の空に輝く一つ星を表しています。我が父と母によって、名付けられました」
星とは何だろう。
母の意識からは雲の彼方、はるか高みに煌めく光の粒が読み取れる。でも晴れ渡った空を見たことがない小さき者には、もうひとつ実感が湧かない。
この光を、いつの日か自分も見ることが出来るのだろうか。
母が語る言の葉の一枚ごとに、彼は未だ見ぬ世界へのあこがれを重ねていく。
だが憧憬よりも気になる言葉を、母は発していた。
「父、父とは?」
「子は、雌である母と雄である父が
「では、我にも父がいるのでしょうか」
「ええもちろん、あなたにも父はいます。いえ……」
母は、そこで言葉を切った。
「いました」
「いました、とは?」
「今はもういません。つい先頃、戦いに敗れてこの世を去りました」
「戦いに敗れて?」
「そう。私があの者のもとを離れたのはもう百年以上も昔のことですが、その後もずっと
「父の名は?」
「さあ? あの者は色々な名で呼ばれていましたし、あの者自身も名などに興味を持っていませんでした。
暴嵐の王、魔王、覇滅の槌。単に王とも呼ばれていました。ですが、本当の名は私も知りません」
「では、母の名を我にください。我はこの後ヴィーラグア・ベデルガと、ベデルグが生みし光の子を名乗りましょう」
「嬉しい、それはとても嬉しいことです。
それにあなたはとても思慮深い。ただ与えられるを良しとせず、自ら道を開く意思を示しました。
私はあなたを生み落としたことで使命を果たし、もはやこの世に未練はないと思っていました。ですが今は、一日でも長くあなたと過ごしたいと思っています」
「母よ、我はずっとあなたと共に過ごしたい。あなたの声をずっと聞いていたい」
「我が愛し子、ヴィーラグア・ベデルガよ。私にはもう指先ひとつを動かす力も残っていませんが、言葉のみは失われていません。あなたに、私の知るすべてを語り伝えましょう。
この命が尽きる、その時まで……」
―――※―――※―――※―――
そうして幾十日、幾百日を過ごしたか。
ヴィーラグアの名を与えられた小さき者が、九十九の屍をすべて喰らい尽くしたころ、母は言葉を発するのを止めていた。
何日も声が聞こえず、こちらから語りかけても応えぬことをいぶかしんで、その姿を改めて見据えた彼は、彼女がすでに息絶え、兄弟たちと同じ屍となっていることを知った。
長い時を経、多くの肉骨を喰らい尽くしたヴィーラグアは、生まれた頃とは較べものにならぬ体格、強靭な肉と四肢を備えるに至っていたが、それでも母の身体は見上げるほどに大きかった。
だが己が身に秘める
強大な魂には、それに見合う強靭な肉体を。
ヴィーラグアは立ち上がる。
そしてこの地で果たすべき使命を全うすべく、目の前にそびえる巨大な肉塊、百体目の屍に挑みかかるのだった。
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