2.絶界に生まれし者


 広大な大陸の中央を東西に走り、世界を二つに分かつ大地の裂け目。

 それは、北部山岳地帯ツンドゥールカの南端から始まり、四千カマールほど東に延びたのち、大地の背骨と呼ばれるカラルカ大山脈をかすめるように南に向きを変え大きく弧を描きながら大陸南東部に達する、総延長六千カマールにも及ぶ大地溝帯だ。

 裂溝の幅は最大で数十カマール、深さは地殻をも貫き、その底に大地のはらわたとも言うべき炎の河を覗かせる。


 古来、その存在を知らぬ者はなく、だが実際に姿を眼にした者は稀だ。

 なぜなら、一帯を包む炎河の灼熱に耐えられる者はなく、加えて大量の瘴気が嵐となって吹き荒れて、生者の来訪を拒むからだ。

 さらに瘴気は周辺の環境にまで影響を及ぼし、亀裂の両岸に幅数百カマールにも及ぶ異形の生物相を形成する。

 困難を乗り越えて最深部に達することが出来るのは、常識では計り得ぬ力を備えた超人、あるいは飛龍を駆りはるか上空から覗き見る者くらいのものだ。


 多くの人々の目に映るのは、遠く夜の地平を照らす、血の色の滲光のみ。

 人はそれを、地獄火と呼んだ。



―― * ―― * ――



 灼熱と暴嵐に満たされた、絶界の最深部。

 炎の河を見降ろす断崖の上に、その存在はひとり身を横たえていた。


 岩山とも見まごう巨躯と、それを包む黒鉄の剛膚。

 巨大で禍々しい翼。

 長く太い尾。

 四肢は巨木にも似て、指先には大剣の如き剛爪を飾る。

 その威容を前にすれば、この者に害をなすことができる者など世界のどこにも在りはしないと、誰もが諦嘆するに違いない。


 だが、かつて双眸を彩った烈火の輝きはとうに失われ、爪剣は黒曜のきらめきを曇らせて久しい。

 存在は、永遠とも思われた長き生を、今まさに終えようとしていた。


 天には垂れこめる黒雲が陽の光をさえぎり、大地は絶え間なく走る身震いによって千々に刻まれている。

 風は瘴気をはらみ、気まぐれにそそぐ驟雨もまた、毒。

 周囲に命ある者の姿はない。

 ただ一つ、それ自身がたった今生み落とした,小さき者を除いて。


「わが子よ……」


 巨大な存在が語りかける。

 その小さき者は、おぼろげに形成し始めた意識のすべてを声のする方へ向け、全身の力を込めて初めての行動を起こした。


「何者か?」


 語りかけに応じようと意識を凝らすと、体の一部が開き、そこからかすかな風が漏れた。

 その風に自分の意志が込められていることを、理由もなく理解した。


「これは驚いた。あなたは生まれたばかりだというのに、もう言葉を操るのですね。

 ならば答えましょう。私は、あなたの母」

「母とはなに?」

「あなたを、この世に生みし者」

「神ではないの?」

「なにゆえ、今まさにこの世に生を受け、己が何者かも知らぬあなたが、神を知るのか。

 ああ、それを訊ねるのはやめておきましょう。でもその言葉に、私はかつてない光を見ました。

 あなたこそ、わが想いをかなえてくれる最後の希望」


 雷光がきらめき、灼闇の中に巨大な龍の影を映し出す。

 存在はわずかに眼を開き、傍らにうずくまる小さき者を視界にとらえようとする。

 その慈しみを込めた眼差しは、凶悪な見姿とは裏腹の、まさしく母のものであった。


「自分は、何者なのでしょう。なぜここにいるのでしょう。これから何をすればよいのでしょう」

「生を受けたばかりだというのに、あなたのゴウラは既に一人前の獣であるかのようにふるまうのですね。

 でも、いかに魂が求めようとも、未熟な身体が応えることは出来ません。

 答えましょう、あなたはまだ何者でもありません。ここにいる理由は、私がそれを望んだから。何をすべきかは、これから教えましょう」

「教えてください、母よ」

「ああ、ああ。母と呼んでくれるのですね。とても嬉しい、それは百年も待ち望んだ言葉です」

「百年……」


 それが、どれほどの時を示しているのか。

 知るすべもないが、自分という存在を迎えるのを気が狂うほどに待ち焦がれていたことを、母の意識が伝えた。


「私の命が尽きる前に、あなたにまみえることが出来て、本当に良かった。

 わが子よ、周りを見なさい。そこにあるのは、あなたの兄弟たち」


 見るという言葉も、初めて聞くものだ。

 だが声とともに流れてくる母の思考によって、その意味を知ることができる。


 小さき者は己の身体に眼という器官が備わっているのを理解し、そこに意識を向ける。

 すると、光と闇と色と形が、自分の中に入ってきた。

 母の姿を求めたが、それは大きすぎて視界に入らなかった。


 周囲を見渡すと、黒く不思議な形状の物体が無数に横たわっていることに気付いた。

 どれもが似たような形で、大きさも同じくらい。

 身体の下に触れている石くれと変わらぬ固さに見えるが、その形状には無機質ではない何らかの意味を感じさせる。

 眼を閉じて意識を広げ、さらに周囲を探ると、それらの物体と同じ姿を自分自身が備えていること、そして大きさは違えど母なる者も似た姿であることを知った。


「この者たちは、何者なのでしょうか。兄弟とは、我と同じ姿のものを示すのでしょうか」

「その通り。ここにある九十九の者は皆あなたと等しく、私が産み落としたあなたの分け身です」

「では我もいずれ、このような固い体になってしまうのでしょうか」

「いいえ、この子らは生まれてすぐに力尽き命を失いました。これらはその屍、ゴウラの抜け殻です。

 あなたのゴウラは、彼らが持たぬ限りない力に満ちています。

 ですが肉体は限りなく未熟。ゆえにその身体にも、魂に見合う強さを与える必要があります」

「何をすれば良いのでしょう」

「屍を、喰らいなさい」


 喰らうという言葉の意味も、母の意識により理解できた。そのために何をすればいいのかも。

 小さき者は母が語る言葉に何の疑念も抱かず、傍のひとつに身体の一部を差しのべ、たぐりよせた。

 屍は重く、動かすには全身の力が必要だったが、その感触から硬い表面とはうらはらに内部には弾力を孕んでいるのを感じた。

 なるほど、この様子も自分とよく似ている。


 自分の身体に開いた、先ほどから言葉を発している穴をさらに広げる。

 穴は広げようと思えばいくらでも大きくなり、さほどの苦労もなく黒い塊を体内に取り込むことができた。

 屍は自分と変わらぬ大きさで、取り込むというよりも包み込むと言った方がふさわしい格好になってしまったが、それ自体は気にならない。

 ただ、身動きが出来なくなったことと、言葉を発するのも辛くなってしまったのは、困りものだった。


「母よ……、苦しいです」


 そうか、この状態は苦しいと表現するのか。


「しばらくの辛抱です。いずれ兄弟の体は融け、あなたの肉体の一部となるでしょう。

 そうしたら次の屍を。

 焦る必要はありません、あなたには充分すぎるほどの時がある。

 全部の兄弟を喰らいつくすには幾日もかかるでしょうが、そのあいだに、わたしと沢山お話をしましょう。

 ああ……我が子よ。愛しい子よ」


 眼を閉じ、体内に眠る自分の分け身に意識を集中する。

 心で呼びかけてみたが、何のいらえもなかった。

 動きもなかったが、時が経つにつれ屍は硬さを減じ、体の不自由も軽くなっていくような気がした。

 見ることのできぬ影が少しずつ形を失い、自分になっていく。


 異なる存在と一つになる感覚に不思議な充実を憶えつつ、同時に響く母の声に心をゆだねながら、小さき者は微睡まどろみの淵に沈んで行くのだった。


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