第4話 3月20日
次の3月20日、僕は昨日より30分早く家を出た。今日は一緒に登校出来ない事は、事前にポケベルで涼司に伝えておいた。
早い時間に来ても、日比谷線は変わらず満員状態だった。もしかすると、昨日より混んでいるかもしれない。
毎年春分の日は3月の20日か21日のどちらかだが、今年、1995年は21日が春分の日だ。よって今日は平日となり、いつも通り人々は通勤していた。
地下鉄築地駅のホームで、僕は電車が来るのを今か今かと待っていた。その時間は永遠に感じられた。
しかし、電車は一向に来なかった。「待ち遠しい時、こんなにも時間の進みは遅いものか」と僕は思った。
しかし、そう感じたのは僕だけではないらしく、前に立って待っている中年のサラリーマンが腕時計を確認して舌打ちをした。周りの人もそのサラリーマンに続いて時間を気にし始めた。
その時、反対側のホームに電車が到着した。10両編成の日比谷線がゆっくりと速度を落とし、力尽きたように止まった。
次の瞬間、僕は目を疑った。
扉が空いたと同時に、巣をつつかれた雀蜂の様に人がどっと中から流れ出てきたのだ。それは異様な光景だった。全員が我先に外に出ようとして、開閉扉が今にも破壊されそうな勢いだった。
3号車の方で金切り声がした。3号車だけ妙に空いていた。というか、1人を覗いて誰も居なかった。
よく見ると、若い男性が上半身をホームに出した状態で倒れていた。次の瞬間にはホーム全体がパニックになっており、女性の金切り声はもう目立たなくなっていた。そこで僕は、車内から飛び出してきた人々は、3号車から逃げてきていた事に気づいた。
阿鼻叫喚と化したホームに駅員のアナウンスが降り注いだ。
「えぇー、日比谷線をご利用の皆様にお知らせします。先程、小伝馬町駅におきまして緊急停止ボタンが押されました。原因は詳しくは分かっておりませんが、8時頃、中目黒行きの車内で何らかの毒ガスがまかれたとの事です。小伝馬町駅ではそのガスが充満しており大変危険な状態にあります。よって、日比谷線は只今全面運転を見合わせて頂いております。繰り返します、」
その放送により、ホームはより混沌と化した。男性が倒れている車両に近づく者はいなく、野次馬によって穴が空いたドーナッツのような状態を形成していた。
人混みに揉まれながらポケベルの時刻を見た。8時15分。秋子とは8時30分に待ち合わせをしたので、秋子はこの電車には乗っていないし、小伝馬町駅にも居ないばずだ。
僕は安堵の胸を撫で下ろした。
しかし、そこで僕の頭に一つの仮説が浮かんできた。
もし、秋子が昨日の約束を忘れないでいたら。もし、秋子がまだ僕の事を好きでいてくれたら。
きっと秋子は30分前の8時ぴったしに小伝馬町に着いて待っててくれるだろう。そして、それは時間的にこの電車に乗っていた事を意味する。
そして秋子がいつも3号車前のベンチに座っていた事を思い出す。
そうだ。秋子は毎朝3号車に乗って来ていたのだ。
気がつくと、僕は人混みをかき分け、出口へと続く階段を登っていた。勿論、公衆電話には長蛇の列が出来ていた。
どうして、もっと早く気がつかなかったのだろう。
僕は自分の頬をはたいた。少しばかり周囲の人から注目を集めたかもしれないが、そんな事今の僕にはどうでもよかった。
秋子の事を想像する。
ベンチで本を読みながら僕の事を待っている。今か今かと待っている。
待ってて欲しい、と心の何処かで僕が言った。
半径10メートルの人達に聞こえるくらいの強さで、もう一度僕は頬をはたいた。
その時にはもう視点は直っていた。
1995 かじゅぎんが @kajiyukiya
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