第3話 電話ボックスの余韻

 屋上へ上がると、秋子が上から校庭を見下ろしていた。屋上には僕と秋子の他に誰もいない。外へ

出てみると、とても春とは思えないてついた風が流れていた。


「どうしたの?秋子」


 僕はゆっくりと歩み寄りながら言った。


「いや、ちょっと。言いたい事があって...」


 振り返った秋子は僕に目を合わせずに、左下を見ながら答えた。目線の先には屋上の汚れた緑色の地面があるだけだった。


 続きを待ったが、秋子は何も言わず、数秒の時が過ぎた。何か気の利いた事を言おうとしたが、秋子が口を開く方が先だった。


「...分かってるでしょ、私の言いたい事。ヒデは鋭いもん」


 僕は一泊置いてから言った。


「いや、分かんないな。なんだろ?」

「...嘘つき」


 嘘つき。確かに僕に相応しい言葉だ。今まで何人の人に嘘をついてきたのだろうか。勿論そこには自分自身も含まれる。


 秋子はため息をついてから吹っ切れたように言った。


「ヒデが好きって事。これ女の子に言わせない方がいいからね?」


 きっと直ぐに返事を返すのが鉄則だろう。僕もそうしたい。だが、返す言葉が思いつかなかった。全く勉強せずに挑んだテストの時の様に、頭がショートしていた。拾える言葉が無いのだ。


「で、ヒデは私の事どう思ってるの?」


 痺れを切らした秋子が尋ねた。その声色には僅かな緊張が含まれていた。


「僕は......分からない」


 凍てついた風が僕らの間を通った。


 風の音が鳴り止むと共に、秋子の右手の掌が頬に飛んできた。だが頬すれすれでその手は止まった。


「分からないって何よ...」


 秋子は手を下げて、うつむいたまま入口の方に走っていった。僕はまた何も言えなかった。白黒つけたい秋子の性格からして、それは最悪の回答だった。



 午後になり、後半の講習が始まっても、結局秋子は戻らなかった。秋子抜きで講習が終わると、僕は一目散に体育館の女子バレー部に向かった。が、そこにも秋子は居なかった。


 体育館の入口で立ちすくんでいる僕の元に、涼司がやって来た。


「帰ろうぜ」


 僕は無言で頷き、校門へと向かった。


 駅へ向かう間も、日比谷線の中でも僕らは何も話さなかった。いつもなら、話題は尽きる事なくいくらでも湧いて出てきたのに。


 築地駅に着いても、僕らは話さなかった。涼司に付いて行っていると、帰り道から外れている事に気がづく。


「どこ向かってんの?」

「いつもの公園」


 そう言って涼司は僕に構うことなくどんどん進んでいく。着いて行くだけでも結構疲れる。


 雲の隙間から西日が差し込み、僕ら二人の影は細長く伸びた。


 公園に着くと涼司は徐にリュックサックからバレーボールを取り出した。

 

 その公園は隅田川の河川敷に位置し、遊具も何も無いので小さい子供らは近くにある別の公園に行く。だがら、僕らの他にこの公園を使う物好きはあまり居なく、いつも空いていた。僕らは小さい頃からこの公園で練習をしてきたが、高校になって部活のある日が増え、暫く来ていなかった。


 ボールを持った涼司は、前触れもなく僕に向かって勢いよくサーブを打った。


「いきなりかよっ!」


 準備をしていなかった僕は、突然放たれた豪速球に戸惑ったが、上からの視点のお陰で涼司がサーブの体勢に入っている姿を捉え、何とか上にレシーブする事が出来た。


 僕らがこの公園でやる練習はいつも同じだ。一人がサーブし、もう一人がレシーブをする。上がった球を何回か高くオーバーハンドでラリーをし、体勢が整ったら、今度はレシーブした方がスパイクをする。これの繰り返し。単純だがとても難しい(失敗の殆どは涼司のスパイクを僕が取れない場合だ)。


 僕がスパイクをし終わり、今度は涼司がする番になった。しかし、涼司はスパイクをする事なくオーバーハンドでラリーを続ける。

 不審に思って、何か言おうとすると涼司が徐に口を開いた。


「実は俺は秋子が好きなんだ」


 なんの戸惑いも照れも入ってない真っ直ぐな声だった。


「知ってる」と僕は返した。


「やっぱり?バレてたか」と涼司は笑いながら言った。


「僕が何年一緒にいると思ってるんだ。大体の事は分かるよ」


「成程。でもそれは俺に関しても言える事だぜ」


 僕は黙り込んだ。あたかもラリーに夢中で答えられないかのように。


「俺もヒデの事が自分のように分かる。例えば、ヒデが秋子にどう答えたかとか」


 僕はまた黙る。涼司は昼に秋子が僕に耳打ちしたのを見た時に、事態を把握していたのだ。


「ヒデは好きかどうか分からない、と答えたはずだ。違うか?」


「...合ってる」


「やっぱし」

 涼司はクイズに正解したかのように嬉しそうに笑った。


「ヒデには自分の意思というものがないんだ。全て他と比較して考える。勉強ではその性格は役に立つかもしれない。でも、判断材料が自分の意思しかない恋愛ではそうはいかない」


 普段は短慮でバレーボール一筋の涼司だが、極たまに、人が変わった様に全うな事を言う。それが今だ。


 涼司は僕を気にせず続ける。


「逆に言うと、ヒデは周りの事を良く見えているとも言える。見えてるからこそ比較できるってわけ。実際、ヒデは気が利くし、他人を思いやれる。告白を了承しなかったのも、どこか俺に対して申し訳ない感情があったんじゃないか?それとも、三人の関係性が崩れる事を心配したんじゃないか?」


 果たしてそうだろうか。自分の胸に聞いてみるも返事はない。


「きっと秋子もヒデのそんなとこに惚れたんだ」


 そう言って涼司はバレーボールをキャッチし、長らく続いていたラリーは終了した。その言葉が向けられた先は僕では無い気がした。


「僕に秋子と付き合う資格があるのだろうか」と僕はうっかり呟いてしまう。


 涼司の前でそんな事を言うべきではないのは分かっていたはずなのに。


 涼司はボールを持ったまま、真っ直ぐ僕を見つめて言った。


「秋子はいつも予定のちょうど30分前に待ち合わせ場所に到着するだろ」


「うん」


「あれはお前が来る時だけだ。俺と待ち合わせをする時は時間ぴったしに来るよ」


 初耳だった。確かに自分が居ないのなら知りようがない。


「小学校四年生の時の中央区のバレーボール大会覚えてるか?決勝まで勝ち進んであと少しで優勝という所まで行ったけど、最後の秋子のミスで優勝出来なかった。そのあと、秋子が女子トイレに籠って何時間も出てこなかった事があっただろ」


「あった気がする」


「秋子の泣く声は聞こえるけど、俺らのクラブは男ばっかだから入るにも入れなかった。で、1時間毎に少しずつ秋子を待つ人が帰って行って、結局最後にはお前だけが残った」


「よく覚えてないな」


「お前が覚えてなくても秋子は覚えてるんだよ。4時間も待ち続けたお前を」


 その話を聞いてもいまいち思い出せなかった。昔から、思い出というのを何処かに置き忘れる癖があった。


「だから早く来るようになったって事か」


 秋子が僕が来るのを待っている姿を想像する。小学生、中学生、高校生。色んな秋子が待っている。カンカン照りの真夏日に、或いは篠突く雨しのつくあめの降る早朝に。どんな思いで待っていたのだろう。どんな気持ちで朝早く起きたのだろう。


「お前、いつの間にか当たり前だと思ってねーか?」


 涼司の掠れた声を聞いて、僕の心の中でパチッという音がした。例えるなら、ジグゾーパズルがはまった音。例えるな、着火剤に火が付いた音。


「ごめん。僕、行かなきゃ」


 僕は涼司に背を向けて、公園の出口へ走り出した。きっと僕が俯瞰視点ではなく、いつもの一人称の視点で世界を見ていたら、涼司が後ろで泣き噦っている姿を知らないまま去って行っていただろう。



 公園を抜けた僕は、一番近い公衆電話に駆け込んだ。


 この辺りの公衆電話の場所は全て把握していた。


 辺りを見ると、街頭は光を灯し、夜が始まりつつあった。電話ボックスの光が辺りを照らしていた。


 テレフォンカードを公衆電話に刺しこみ、震える手で番号を押した。呼び出し音が3周したくらいで相手が出た。


「もしもし」


 よそよそしい秋子の声だった。公衆電話から掛けたからしょうがない。僕は秋子のように携帯電話を持っていないのだ。


「もしもし。僕だけど」


 僕が出ると予想通り秋子は黙り込んだ。


「......なに?」


 暫くしてから秋子が言った。


「いや、その、なんて言うか...」


 その時になって僕は、話す内容を決めていない事に気がついた。


「明日も集合9時だけどさ、僕も8時半に行くから。そこでちゃんと話す。昼の返事」


 きっと電話でしどろもどろに言うより、明日ちゃんと直接言った方が良いだろう。


「...分かった」


 秋子はそう呟いて電話を切った。電話が切られた後も、暫く秋子の声が僕の頭をジャックした。

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