第6章 不幸を選ぶ自由意志

「ごめん、スサノシン……。油断しちゃった……。てへぺろ」


 腫れぼったい顔のローリエッタが、無理に作った引きつった笑顔で謝罪の言葉を口にする。左目にできた真新しい青あざと、欠けた前歯が彼女の痛ましい状況を物語るには十分だった。


「誰が勝手に、喋っていいと許可を出しましたか?」

「きゃあっ!」


 ラズィーネがローリエッタの前髪を強引に引き寄せ、彼女の頭を仰け反らせた。


「やめてくれ! 手荒な真似をするな!」

「そうしたいのは山々ですがね。手負いでない貴殿を前に、私も余裕がないので、こうした卑劣な手段に頼るしかないのですよ……。誉れある王都の騎士団長である私にとって、これ以上の屈辱はありませんよ! ねぇ!」


 ラズィーネはそう言うと、短刀をローリエッタの肩に突き立てた。


「――――うぐぅっ!」

 苦悶の表情を浮かべながらも、声を抑えて耐えるローリエッタ。


「これで彼女は得意の弓が使えなくなりましたね。貴殿の前でこうして見せたのは、脅しではなく、本気であることを示すためです」


 ラズィーネは短刀をぐりぐりと回し、ローリエッタの傷をさらに抉るように動かす。肩口から吹き出す血が彼女の衣服を真っ赤に染め、流れ出た血が腿を伝い、足元まで滴り落ちた。


「ぎゃああああああっ!」

 気丈に振る舞っていたローリエッタも、ついに悲鳴を上げずにはいられない。


「これは、先日私の足を射抜いてくれたことへのお礼ですよ」


 ラズィーネはボクをじっと見据えながら、執拗に彼女の傷口を責め、そのたびにこちらの反応を細かく観察している。


「……やめてくれ。何でも言うことを聞く。だから、彼女には手を出さないでくれ」

「そうでしょうね。ああ、良かった。あなたが私の知る優しい勇者殿のままでいてくれて、本当に良かったです。もし彼女を見捨てるような態度を取られていたらと思うと、ゾッとして――」

「いいから早く! 要求を言えよ! ゲス野郎がッ!」

「……下衆ですか。まあ、いいでしょう。ではこれを」


 ラズィーネは懐から液体が入った小瓶を取り出し、ボクに向けて放り投げた。


「躊躇わず、一気に飲み干してください。それは大陸で最も強力とされる即効性の猛毒です。とはいえ、貴殿にはどれほど効くかは未知数ですが、体力を奪うには十分でしょう」

「……飲み干して見せたら、ローリエッタを解放するんだな?」

「ええ、もちろんです。私は怨恨で動いているわけではありません。女王の命令で、国家のために仕方なくやっているだけですから」

「お前の騎士としての誇りは……よく知っているよ」


 ボクは小瓶の蓋を弾き、中身を一気に飲み干した。


「その覚悟、お見事です」


 ラズィーネは約束通り、ローリエッタを蹴り飛ばし、開放した。

 彼女は押し出されるようにボクの元へ倒れ込む。


「ローリエッタ!」

「ハァッ、ハァッ……バカね。どうしてあんな奴の言うことを……うぐっ」

「無理に喋らないでいい」


 ボクは持っていた布で彼女の傷口をきつく縛り、止血を試みた。洗いたての白い布は瞬く間に真っ赤に染まっていく。その間、ラズィーネは何もせず、ただ静かにこちらを見守っていた。


「三分ほど経ちましたかね……。どうですか、勇者殿。体調は優れませんか?」


 ラズィーネの言葉通り、ボクの体調は最悪だった。胃が焼けつくような痛み、頭が割れるような頭痛、全身の痺れ、倦怠感、そして異常なほどの発汗。吐き気がないのは、毒が吐き出されないように設計されたものだからだろう。


「ご覧の通りだよ、おめでとう。ちなみにだけど、解毒剤を持ってたりはしないよな?」

「残念ながら、解毒剤は持ち合わせておりません。貴殿が飲み干した毒薬は、罪人の処刑用に特注で作られたもので、解毒できない工夫がされているのです」

「ああ、そうか……。じゃ、仕方ないな……」


 ――そうか。このままボクは死ぬのか。


 そう思った時、不思議と未練は感じなかった。この世界に来る以前の記憶が懐かしく蘇る。前の世界での苦しみ、受け入れがたい現実の日々の思い出が、走馬灯のように押し寄せ、胸が苦しくなる。


 ――しかし、どうして世界から貧困や差別がなくならないんだろう。


 過去の記憶に浸りながら、ボクは思考を巡らせた。経済的不平等、教育格差、搾取、飢餓、病気、環境破壊、戦争、人種差別。……社会問題は山積みだった。でも、この未成熟で可能性に溢れた世界なら、ひょっとして……切っ掛けがあれば、ボクのいた現実と同じ未来にはならないかもしれない。


「さて、このまま放って置おいても、貴殿はじきに亡くなりますが、それでは私にとって後味が悪くなります」

「……何が言いたい?」

「決闘に立ち会いなさい。かつての同朋として、一瞬で楽にして差し上げます」

「そりゃ……お優しいことで……ぐっ」


 ボクは膝に手を置いて、フラフラと力無く立ち上がった。


「聖剣……抜刀……」


 だが、左手からは弱々しい光が霞むだけで、刃の形にはならなかった。


「お別れです。……さようなら!」


 ラズィーネが一気に間合いを詰め、ボクに刃を振り下ろそうとしたその瞬間――。


「スサノシン! 負けるなァアアアアア!!」


 ローリエッタの声援が山彦となって響き渡り、その音が刻印に共鳴した。

 死への渇望が、生への執着へと、一瞬で逆転する――。


「うおおおおおおおおおおッ――――!!!!」

 左手から青白い閃光がほとばしり、稲妻が刃となり迸った。


「お見事……です……ぐふっ……」

 ラズィーネはそう呟くと吐血し、前のめりに崩れ落ちる。


「ハァ……ハァ、ハァッ!」


 なんてことだ。これで本当に良かったのか? いや、そんなはずはない。かつての仲間を、この手で殺してしまった。自身の死が迫っている、この状況で、なぜ彼を手にかけなければならなかったのか? ボクには憎しみも、恨みも、生きたいという希望もなかったのに……。震える左手を見つめ、ボクは親友を殺めた現実を思い知る。


「そんな……! ラズィーネ! 嘘だろ、おい! しっかりしろ!」


 ラズィーネの身体を仰向けに転がす。彼の体からは止めどなく血が流れ、地面に広がる赤い染みが彼の致命傷を物語っていた。


「フフッ……。その表情、勝者には見えませんね……」


 薄れゆく意識の中で、彼は微かに笑みを浮かべた。

 まるでボクを嘲笑するかのように。


「勝者……だって? この状況で勝ち負けなんか……! ボクは……ボクは……」


 死ぬのはボクのはずだった。自分自身を憎み、悔しさに胸が締めつけられる。視界の端で、ローリエッタが肩口を押さえながら、ふらつきつつ近づいてくるのが見えた。彼女もまた傷ついている。体も、心も――。


「スサノシン……」

 ローリエッタの声は震えていた。しかし、今のボクは彼女の顔をまともに見ることすらできない。臆病者だ……。


「勇者殿……貴殿には、もう一つ、残酷な仕事が残っていますよ……」

 ラズィーネが、掠れる声で告げた。

 呼吸は浅く、最後の力を振り絞っているのがわかる。


「……どういう意味だ?」

「王都は、貴殿の行動により、粛清に動いています……。貴殿と親しかった、半獣人のギュスカ……という名前でしたかね? 彼女は思想反逆者として、処刑を控えています……」


 その名前を聞いた瞬間、ボクは頭の中が真っ白になった。ギュスカ――。あの温厚で、いつもボクを励ましてくれていた彼女が? そんなバカな……!


「嘘だろ……! ギュスカが処刑される? そんな理不尽が許されるのか!」

「疑わしきは罰せよ……それが権力者の常です。彼女が貴殿の思想に影響を与えたという名目で捕らえられました。権力者にとって、真実など些末な問題でしかありません……ごほっ……脅威を排除することが最優先なのですよ……ふふっ」


 ラズィーネの言葉に、ボクは無力感と怒りが一気に押し寄せてきた。


「ふざけるなァ――ッ! 彼女とボクの行動に何の関係があるんだ! 彼女が罰せられるなんて、絶対に間違っている!」


 ボクはラズィーネの胸ぐらを掴んで問い詰めようとしたが、彼の意識はすでに遠くに行ってしまっていた。彼は苦しそうに、最後の力を振り絞りながら、言葉を絞り出すように続けた。


「私の鎧の下、衣嚢ポケットの中に鎮痛薬があります。おそらく半日は痛みが緩和され、動けるはずです。……ご褒美に、勇者殿に差し上げましょう……ふふ」

「そんなことは聞いてない! ボクの質問に答えろ! ……そうだ、フランチェスカはどうなってる!? おい! ラズィーネ、彼女はどうなんだ!」


 しかし、ラズィーネは何も応えようとしない。


「……彼、もう事切れたわ。そっとしておいてあげましょう」

 背後からローリエッタが静かに声をかけてきた。


「くそっ!」

 ボクはラズィーネの鎧を乱暴に剥ぎ取り、彼の衣嚢ポケットから鎮痛薬を取り出し、一気に飲み干す。


「スサノシン、どうするつもり? 何を考えているの?」

「グラヴシュタロハイムに戻る」

「……駄目よ。そんなこと、アタシがさせない」


 ローリエッタは、片腕をかざして刻印の力を発動させる。

 ボクの肉体は彼女の命令に逆らないため、その場で静止するしかない。


「たかが50年か60年……人間の命なんてそんなものよ! 長くても100年ぽっちしかないわ! その中で、こんな無意味な争いに命をかけるなんて……本当に虚しいだけだわ! アンタだって、ただの人間なんだから、そんな使命感に振り回されずに、ここで普通に生きればいいじゃない!」

「ただの人間……」

「そうよ。アンタも普通の人間でしかないのよ。勇者なんて肩書きは捨てて、ここで一緒に穏やかに暮らしましょう……」


 そう優しく告げる彼女の言葉はどこか儚げだった。

 しかし、ボクの決意は、そんな甘美な誘惑には揺るがない。


「ローリエッタ……。ボクは、ただの人間だよ。最初からずっと、特別でもなんでもなかった。ただ一人の人間として、やらなきゃいけないことがあるんだ」

「……お願いだから、行かないで……ここに居て……」

「ローリエッタ、頼む……行かせてくれ」


 ローリエッタはしばらく無言でボクを見つめていたが、やがて小さく頷いた。


「……て。生きて、必ず帰って来なさい。アンタの成すべきことを果たして、私の元に必ず……」


 感情を振り絞り、弱々しく掠れた声を震わせて、彼女は涙を流し、そう告げた。


「ありがとう。必ず約束は守る」


 そうだとも。彼女と、刻印の命令には逆らえない。

 だが相反して、刻一刻と迫る死を受け入れつつあることも事実である。


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