16歳-14 世間の反応
エリザベス・ブランソン 27歳
「理論と実現象の間には大きな隔たりがある。実現象は常に正しく、修正すべきは理論だ」
私がスポーツトレーナーとしての進路を決めたときに、恩師であるルイス教授から言われた言葉だ。
今になって思えば、当時の私はその言葉の意味するところを理解できていなかったのだろう。
これまでの人生を振り返ってみると、挫折のないスムーズな道のりであったと思う。
イギリスの名門、キングストン大学ではスポーツ科学の勉学を修め、首席で卒業した。
大学院ではトレーニングの負荷と筋力の成長量に関する理論を構築し、その研究成果は著名な学術誌にも掲載された。
博士論文は最高評価であり、25歳で博士号を取得できた。
卒業後の進路は正直迷った。
ルイス教授からは助手として働かないかという声がかかっていたし、別の大学からは助教としてのオファーもあった。
しかし、私は大学院での研究成果を現場で活かしてみたい、実際の現場でトレーニングの本質を知りたいと思い、それらの誘いを蹴ってスポーツトレーナーの道を選ぶことにした。
職場はイギリスのナショナルトレーニングセンターだ。
この選択に後悔はない。
自ら構築したトレーニング理論を基にスポーツ選手を指導するのは楽しかったし、理論通りの成果が得られて選手たちのパフォーマンスが上がった時には大きな達成感があった。
選手たちとの関係も良好で、今ではバスケットボールをはじめとして、サッカー選手や陸上選手など、多様な種目のスポーツ選手から頼られる存在になれた。
ランチやデートの誘いも多いから断るのが若干面倒ではあるけど、好かれているのだと思えば悪い気はしない。
今は仕事に集中したいから、誘いを受けたことはないけどね。
マイナス面があるとすれば、同じ選手を見続けられない事だろうか。
ナショナルトレーニングセンターは、オリンピックやワールドカップの少し前に各種目の選手が集められて、トレーニングや合同練習が行われる場所である。
ゆえに、同じ選手を数年単位で見続けることはできない。
殆どの選手はプロであり、帰るべき本拠地がある。
普段の練習やトレーニングはそこで実施するのである。
色んな被験者・・じゃなくて選手のトレーニングを担当できるのは楽しいが、数か月で居なくなってしまうので不完全燃焼な感じもある。
そんな時、大学の大先輩であるアレンさんからの誘いがあった。
スペインのプロバスケットボールチームであるラバリア、そこでトレーニングコーチをやらないかという誘いだ。
正直、ラバリアのことを知ったのは最近だ。
バスケのユーロリーグの会見で差別発言があったとかで、炎上してニュースになっていたのを覚えている。
・・・しかし、あれは巻き込まれ事故のようなものだったし、ラバリアの印象は悪くない。
そこからの試合は全て全勝を収めているようなので、強いチームであろうということは推定できる。
それに、年収が倍増するのが魅力的だ。
ナショナルトレーニングセンターは国が運営しているので、給料は完全な年功序列で支払われる。
正直、27歳だとそこまで多くはない。
大学で助手をしてる友人達と比べると多い方だが、能力に見合った給料をもらいたいという思いもある。
それに、やはり数年単位で同じ選手のトレーニングができるというのも魅力的だ。
選手の個人個人にあったトレーニングをやりたいと思っても、ナショナルトレーニングセンターだと実現できないからね。
そんな色々な思いがあり、次の職場をラバリアのトレーニングセンターに移すことにした。
トレーニングセンターでは、ディフェンス/オフェンス/シューティングなど細分化されたバスケットスキルのアシスタントコーチと、年齢的な事情で退職する筋力トレーニングコーチがいた。
私はこの筋力トレーニング担当コーチであるフェイさんと入れ替わりということになる。
初日、各コーチやセバスチャン監督に挨拶をした後にフェイさんから引き継ぎを受けた。
フェイさんはラバリアのトレーニングコーチを20年以上続けていた大ベテランで、それぞれの選手にあったトレーニングメニューを作成していた。
各選手に必要な筋肉は、試合中の動きや役割と密接に結びついている。
まずは、ここを理解する必要があるだろう。
フェイさんの考え方を読み解いて、勉強しなければ。
とはいえ、トレーニングの負荷や休息の度合いについては、改良点も多数見つかった。
フェイさんはどちらかといえば昔の考えというか、根性論的な部分が多い。
休息日は甘え、毎日の継続が重要であると言っており、実際トレーニングメニューにも反映されていた。
しかし、最新のトレーニング理論では、高強度の筋力トレーニングをした後は、24時間程度は休ませた方が筋力量は増えやすいと証明されている。
フェイさんのメニューでは筋肉が休まるタイミングが少ない。
特にダイ選手のトレーニングメニューは「やり過ぎ」の一言であり、試合が無いときは毎日高強度トレーニングが組まれていた。
腕や背中、足の筋力を鍛えるマシントレーニングに加えて、全力走やラダーなどの俊敏性を鍛えるトレーニング、さらには反射神経を鍛えるビジョントレーニング、持久走等、あらゆるトレーニングが一日に詰め込まれていた。
これに加えてバスケスキルの練習もある。
どう考えても過密トレーニングだ。
最低限、筋力トレーニングの日とその他のトレーニングの日は分けて、交互に実施するべきだろう。
今日は丁度ギリシャ遠征から帰還する日だ。
ダイ選手へ新しいトレーニングメニューを伝えなければ。
そう思って、トレーニングセンターへとやってきたダイ選手にさっそく伝えてみた。
すると、
「いや、俺は今までのメニューで大丈夫だ。一日寝れば回復するからね」
と、爽やかな笑顔で回答してきた。
・・・とんでもなく顔がかっこいいわね。
いや、そんな呑気な分析をしている場合ではない。
「そんなはずはないわ。俊敏性や反射神経のトレーニングはまだしも、筋力トレーニングで傷ついた筋肉は一日寝ただけでは回復しないわ。最低でも24時間はかかるもの」
私はそう言って彼の説得を試みた。
しかし、何を言っても彼は納得しない。
しまいには私の博士論文を持ち出して図解付きの詳細な説明をしたのだが、全く同意してくれない。
彼の頭が悪いわけではない。
というか、私の論文のグラフや数式を素早く解釈できていたのを見るに、スポーツ選手にしては異常なほど理解力が高いようだ。
なのに、自身のトレーニングメニューは絶対に変えようとしない。
「一般的な特性が理論通りになるのは分かった。でも俺は外れ値なので」
の一点張りだ。
頭が痛くなってきた。
攻め方を変えましょう。
彼は16歳、まだまだ成長期。
過度な筋力トレーニングは身体の成長に悪影響を及ぼす可能性があり、身長が伸び止まってしまうかもしれない。
・・・今の状態で224cmあるので、これ以上伸びる必要もないのかもしれないけれど。
とはいえ、もう少し伸びて230cmくらいになれば、それこそNBAでも圧倒的な高さになれるだろう。ヤーマン選手と並ぶ身長である。
しかし、その点を指摘しても彼は
「いや、大丈夫だ。過度な筋力トレーニングをしたとしても、俺が228cmまで伸びるのは既に決まっているからね」
という、謎の数値の混じった訳のわからない回答を返してくる始末。
なぜ228cmという値が分かるのか聞くと、
「おぼろげながら浮かんできたんですよ、228という数字が」
というふわふわした回答を返してきた。
意味不明である。
政治家だってもう少し具体的な回答をよこすだろう。
最近の日本ではフトキカズコなる占い婆が幅を利かせているというし、それに影響された口だろうか。
でも、なぜか確信めいた口調なのが気になる。
その後も力説して説得したのだけれど、彼は
「そんなに言うなら、もし20歳の時点で228cmちょうどになっていたら高級焼肉おごってくれよ。少しでもズレていたらこちらが奢るから」
と、強気の態度を崩さなかった。
私はつい、
「ええ、いいわよ。そんなに正確な予測ができる訳ないじゃない」
と安請け合いをしてしまった。
4年後、私はこの事を大きく後悔することになる。
さて、彼がどうしても折れなかったので、一先ず従来通りのメニューでトレーニングを始めることにした。
まずはベンチプレスから始めたのだが、彼の鍛え上げられた肉体を近くで見ていると、凄まじい迫力が伝わってくる。
250kgのバーベルを上げ下げするごとに、筋肉や関節が音を鳴らしながら躍動している。
巨大なジェットエンジンを間近で見ているかのようだ。
フォームは綺麗なので指導の必要はなさそうだが・・はたして、これほど高強度なトレーニングが必要なのだろうか?
筋肉はつけすぎると柔軟性がなくなって怪我の原因になったり、体のバネがなくなってジャンプ力が逆に落ちたりするのだ。
そこを指摘すると、
「いや、俺は怪我しないから大丈夫だ。あと、黒人選手に比べると体のバネが弱いから、むしろ跳躍力なんかもトレーニングで補わないといけないんだ」
と、筋トレ後とは思えない爽やかな笑顔で回答してきた。
後半は理解できる。
たしかに、体のバネと人種の間には明確な相関があり、黒人選手がトップの成績を誇る。
ユーロやアメリカの白人系人種が後に続き、アジア人は最下位に近い。
試しに筋電位センサを付けた状態で跳躍してもらったが、確かに筋肉の柔軟性(バネ)で跳んでいるというよりは、筋力をフルに使って強引に跳んでいるようだ。
背筋や足の筋肉を鍛える必要があるというのは、納得できる。
しかし、前半の怪我をしないというのは何だろう?
プロのバスケットボール選手は怪我との戦いだ。
優れた身体能力を持つ選手同士が、激しくコンタクトするスポーツなのだ。
筋肉をつけすぎたり、柔軟性を失ってしまった選手はすぐに怪我をしてしまう。
しかも、彼は224cmと身長が非常に高く、体重も125kgと重い。
これだけ重量と長さがあると、関節にかかる力やモーメントは非常に大きくなり、直ぐに怪我をしてしまうだろう。
この事実を図解と数式付きで説明しても、
「理屈からいうとそうなんだけど、俺は大丈夫。関節が強いから」
という謎の回答だ。
・・まあ、関節や筋が強いというなら、本当に怪我をしにくい体なのかもしれない。
この二つは生まれ持ってのもので、鍛えるのは不可能に近い。
逆に言うと、この二つの強さを併せ持つ選手は怪我に強く、選手生命が長いという研究結果もある。
彼はこれまで怪我をしたことが無いようだし、本当に恵まれている可能性がある。
テストしてみなければ。
その後、筋肉の柔軟性を図るテスト、レントゲンやMRI撮影画像の分析、瞬発力テスト、動体視力テストなどを通じて、彼の身体能力を分析した。
一日置いて、筋力の回復特性や増加量も分析する。
現時点での彼の身体能力の優劣を評価し、書き出してみた。
長所:回復の速さ、関節や筋の強度、柔軟性、身長
短所:バネ、筋肉の付きにくさ、ウィングスパン
その他:俊敏性、動体視力
まず、一番異常なのは彼の回復の速さだ。
あれだけの高強度トレーニングをした翌日の朝、筋肉の状態を見ると完全に回復していた。
これはあり得ない事だ。
人間の筋肉というのは、回復に時間がかかる。
筋繊維の観察結果に裏打ちされた理論があり、時間には多少のばらつきはあるものの、おおよそ20-72時間はかかるものなのだ。
それなのに、彼は一晩寝ただけで、たった10時間程度の休息で完全回復していた。
・・・正直、彼の筋肉をチェックして尚、未だ信じられない気持ちの方が大きい。
「理論と実現象の間には大きな隔たりがある。実現象は常に正しく、修正すべきは理論だ」
恩師の言葉がリフレインする。
そうだ。
私が研究者ではなくトレーナーの道を志したのは、実際の現場でトレーニングの本質を知りたいという思いがあったのだ。
これは、間違いなく今目の前で起こっているリアルであり、本質だ。
ダイ選手に合わせて理論を修正しなければならない。
さて、長所の分析に戻ろう。
関節や筋の強度は本当に高かった。100万人に1人いるかいないかの優れた体質だ。
彼が怪我をしない原因はこれだろう。
この体質で超高身長を併せ持つのは、正直バスケットボール選手として反則級だろう。
彼の強さの一因が分かったような気がする。
あとは柔軟性か。
でも、これは普通より少し良い程度なので、日々の柔軟運動が功を奏しているのだろうという感じだ。
反対に、短所としてはバネの無さ、筋肉の付きにくさなどがある。
バネについては人種的にしょうがない部分があるが、筋肉が付きにくいのは意外だった。
彼の筋力量は多い方なので、てっきり筋力が付きやすいのかと思っていたのだ。
しかし、常人の3倍以上のトレーニングをして体を追い込むことで、ようやく筋肉が付いてきたというのが実情らしい。
「俺は人より優れているのが身長と健康要素だけだからな。人一倍トレーニングをする必要があるんだ」
というのは、彼の言葉だ。
・・・まあ、身長と健康(おそらく、関節や筋の強さや筋肉の回復力を指している)が人類稀にみるレベルで優れているので、他のマイナスを掻き消して余りあるのだが。
その他の俊敏性や動体視力は、保留だ。
優れている方だと思うのだが、彼曰くもともと才能がなかったのをトレーニングで強引に補ったそうなので、長所とは言えないとのことだ。
さて、これらの身体的特性を加味して彼のトレーニングプランの指針を作り上げることができた。
それがこれだ!
・高強度トレーニングを毎日実施し、強度を徐々に上げていく
・・・フェイさんや彼自身が提唱していたトレーニングプラン通りになってしまったなぁ。
でも、これは仕方ないだろう。
まさかこんなに異常な回復量がある人間が存在しているだなんて、思いもよらなかったのだ。
気持ちを切り替えよう、次は食事の改善だ。
筋力の回復しやすい食事を取るのも重要になる。
アレンさんと連携して低脂質高たんぱくなメニューを作って、より多くの野菜をとった方が良いだろう。
それを彼に伝えると、
「いやだ。すでにアレンさんにはキロ単位の、樽いっぱいの野菜を食べさせられているんだぜ。シマウマじゃないんだから」
と、断られてしまった。
・・・確かに、彼の食事風景は異様だったからなぁ。
中華鍋のように巨大なサラダボウルに野菜が盛られていたし、それを何杯も食べていた。
というわけで、彼のトレーニングメニューや食事の改善は実施できなかった。
いや、既に最適化されていたというのが近いか。
ナショナルトレーニングセンターから大手を振ってやってきた私だったが、今のところ役に立てていない気がする・・・
やっぱり、実際の現場と理論は違うんだなぁ。
大学時代の同期を食事に誘ってそんな愚痴を言ったところ、
「そんなことより、東雲選手カッコよすぎじゃない!?あれだけのイケメンと働けるってだけで、滅茶苦茶うらやましいわよ!」
という、仕事内容と全く関係のない回答を頂いた。
・・・そういうんじゃないんだよなぁ。
さらに、
「私、バスケのことはよく分からないんだけど、彼のファンクラブ入って写真集めてるのよ。あ、今度トレーニング中の彼の写真撮ってきてよ!」
と、変な依頼をされてしまった。
面倒である。
彼はファンサービスが良いので、断りはしないだろうが。
さて、挫折の無いスムーズな人生を歩んできた私だったが、ここへ来て大きな壁に当たっている。
正直、少し凹んでいる。
しかし、同時に非常に面白いとも感じている。
理論が通じない現象を相手に試行錯誤しているうちに、トレーニングの本質が垣間見えたような気がする。
これぞ、私が現場に来てやりたかったことである。
ダイ選手からは、
「俺は本当に外れ値だから、理論の修正はいらないと思うぞ」
という言葉を頂いたが、甘えるわけにはいかない。
ダイ選手の身体特性の研究と、筋力回復の理論の修正、トレーニングプランの再構築をしなくては。
願わくは、数年先もこの貴重な検体・・もとい選手の経過を見守っていきたいものだ。
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