暗い暗い日常。

めてげ。

仄暗く、輝いて

 けたたましい音を立てるスマホに目が覚めて、慌ただしくその画面に指を躍らせる。ようやく止んだ音に肩を下ろすと、机の上にある水の入ったコップを仰いだ。埃が混じっていたようで不快な風味が鼻腔を刺激した。

 部屋は薄暗くていつもと変わらなかった。カーテンを引いて、青い空を見た。振り返って部屋を見渡すけれど薄暗いままだった。

 ふらつく足取りで洗面台に向かった。

 鏡の中に間抜けな顔をした男がいる。たまにこの顔が本当の自分の顔ではないんじゃないかと思うことがある。自分だけが自分の顔をそう認識しているだけなんじゃないかと。

 濡れた額をタオルで拭きながら男の目をじっと見つめる。一分も経たずに鏡からは男は消えていた。

 ダイニングテーブルの上にハムとレタスが挟まれてるサンドイッチが透明なビニールをかぶっていた。

 手紙はなかったが、それが自分の朝食だとわかった。起きたときに飲んだコップを軽く水洗いして、もう一度水を入れた。

 テレビをつけるのも面倒で丁寧に三角形にカットされたサンドイッチに齧りつく、少しパサついていたが不思議と安心を覚えた。


 気づけば会社に到着していて、眠気は消えていた。ただ気怠さだけが肩に重くのしかかっていた。

 社内は薄暗い。目の前_机の隅には今日終わらせなくてはならない書類と提出期限がまだ先の書類が一緒くたに山となってできている。迷いのない手で、今日の分をPCの前に置いて作業に取り掛かった。

 今朝、出社した時のことを思い出す。どんなかけがえのない大切なものよりも鮮明に蘇った。挨拶が返されなかっただの同僚の声のトーンが低かったから自分が何かしてしまったんじゃないかだの、挙句には一ヶ月くらい前の出来事を引っ張り出して、鼓動が早まる。時々、作業に集中しないとまたやらかすぞとその声も邪魔でしかないのに脳裏を囁く。

 同僚の声が耳朶を打つ。現実のものだ。まさか、とうとう現実と被害妄想の区別がつかなくなったわけでもないだろう。

 面を上げるとやはり仕事仲間が立っている。

「手伝って欲しいのですが」

 人の良さそうな笑みで手元の数枚の紙をひらつかせる。どういう内容かはなんとなくわかった。

 手伝う程度ならいいだろう、そう思い込んでその頼みを引き受けた。

 それに、相手に自分について何かを思わせたくなかった。

 引き受けた後に何も起こらなければの話だが。

 手は動くもののその挙措は効率的なものとは言えない。とはいえ、無理の無い範囲の仕事の量かつ内容もさほど目を凝らさなくてはいけないもの、というわけでもなかったが、途中で思いもよらぬアクシデントに見舞われてしまい、昼休みを潰し、しかも同僚から任された仕事も巻き込むような形で苦労に追われた。とどのつまり、思うような結果を得ることはできず、同僚からの自分への信頼を踏み躙ってしまった、ということになる。

 同僚に自分の不始末を謝罪する時、失望した顔を見たくなくて顔も、目もまともに見れなかったことに髪が逆立つような自分の情けなさを感じる。

 これじゃあいけないだろう?自分の中の鬼が叱責する。せめて顔を見て謝罪をするんだ。独りよがりなものではなく、自分にけじめをつけるために。

 退勤する際、同僚の背を追った。彼は自分が彼自身の名前を呼ぶことに驚いていた様子だった。

 ほぼ勢いに任せて彼に話しかけた。そうしないといつまで経っても話しかけることができないのは、一番自分がわかっている。だが、彼の顔を見て心臓を直接触れられたように感じて、声が止まりそうになる。

 彼は微笑んでいた。

 訥弁な語りで、謝罪をした。彼はうんうんと軽く頷いて何かを言っていた。

 帰路に着いていた。電車から降りると、安心する故郷の景色が目の前でいつも通りに存在している。

 記憶の中の彼が激昂した様子はなく、穏やかに目尻を下げて労りの言葉を述べてくれたような気がする。それどころかどうしようもない問題児を見るような憐れみを含んだ眼差しでこちらを見ていた。

 爾来、突然恥ずかしさに体が燃えたような気がした。胸を掻きむしりたい衝迫に駆られ、その場を走り抜けたくて、歩いて会社から出た。きっと耳の先は真っ赤だったに違いない。

 やはりというべきか、電車を降りてから家に着くまでも、記憶は飛んでいた。

 窓から点りが漏れている。

 時刻は十一時。

 玄関の扉を開けていつものように、靴を脱いだ。

 リビングに入ると母がテレビを観ていた。

 母は振り返ってニコリと微笑んだ。

「おかえり」


 母は何も聞かなかった。二人分のオムライスを用意してくれて、手伝おうとしたが、ほっとして、甘えたくて、何もできない。

 オムライスは昔から変わらない味だった。


 目が覚めると、見飽きた灰色の壁が見えた。

 のそのそと布団から出て顔を洗いに行った。周囲の景色が揺らいで、過ぎていく。

 朝食は塩おにぎり。甘塩っぱくてみずみずしい。腹に無理くり全て詰め込む。


 次に我に返ったのは電車の中だった。

 捉えることができないほどの速さで過ぎていく景色。止まることのできない時間。早鐘を打つ心臓の音。

 広告と窓枠の間の窓から目を逸さなかった。空は青いけれど、景色が灰色にくすんで見える。

 脳裏をよぎるのは昨日の出来事。胸の奥がざわめいて落ち着かない。


 出社して、いつも通り挨拶をする。無視をされるのではないか、挨拶どころか昨日の自分の失態をみんなが知って仕事を任せしてくれないんじゃないか?と覚悟をしていたが予想とは裏腹に明るい声、小さい声、硬い平坦な声、トーンの低い声。多種多様な声音で挨拶をしてくれる。

 社内は照明を交換したのか以前より明るい。

 自分のデスクに行く途中、例の同僚がいた。

「おはようございます」

 彼から挨拶をしてくれた。先日のことはなかったかのように。鼓動はすでに収まっていた。

「おはようございます」

 自分もいつもの声で挨拶を返す。

 二人の会話はそれだけで、同僚もそそくさとその場を去って行った。

 自分も席について、仕事を始めた。


 時刻は十一時。昨日と同じ時間に帰路に着いていた。

 すすきが風に揺すぶられる様子は自身の懐古の念を焚きつかせる。

 ここを通る時は会社のことではなく子供の頃の記憶を思い出していた。いや、正直に言うと隙があれば昔のことに思考を巡らせていた。

 家の玄関に立つ。小窓から光が漏れている。

 もしかしたら、と思う。自分が思っているよりも周りは自分のことを悪いようには思っていないんじゃないかと。

 いつも気にする虫を、今日ばかりは気にしなかった。

 しばらく立ち尽くした後、扉を開けた。ただいまと言って。

 日常の明るい「ただいま」が聞こえた。

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暗い暗い日常。 めてげ。 @metege_613

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