第16話 コウキチさん

コウキチさんとさっき整えたウネはめちゃくちゃになってしまった。


私がせっせと汲んでいた、あのいつもの井戸はどこだろう。


「コウキチ…さん…。」


私の視線の直線上で二人は対峙するような形になっていた。

右手にいる麒麟は、キンキンに冷やした甘いスイカでも食べたかのような、そんな晴々とした表情を浮かべている。


対するコウキチさんの腹部からは、昨日吐いた血の量とは比べものにならない量の血が流れていた。



「本当にすごいな。男、お前はまだ成神なんだろう?」


コウキチさんの腹を穿ったその右脚をゆっくりと下ろして言った。


「はっ……。は、ふぅーーーー…。」


コウキチさんはダクダクと血を流すその大穴に、自分で息を吹き込んで、その傷口を凍らせて止血する。


「器用なものだな。」


そう言って、麒麟はコウキチさんのスネをつま先で軽く小突いた。

私の目でも簡単に追えた。いつも冗談で私がコウキチさんを叩くぐらいの強さだろう。


だが、それを受けたコウキチさんは尻餅をつくような形でその場に崩れた。


「やはりな。流石にガタガタだ。」



行かなきゃ。


咄嗟にそう思って、両足に力が戻る。私は人生で一番の速さで瓦礫の中を駆け抜けた。


コウキチさん…!


コウキチさん……!


ガラスを踏んでも、尖った木片を踏み抜いても、私はその速度を緩めなかった。


「面白かったぞ。男。」


そう言って麒麟が左脚を振り上げようをしたその時、私は自分の身体を二人の間に滑り込ませた。


「やめて!!!!!」


ぴたりと止まる麒麟。

背後には浅い息を繰り返すコウキチさん。


麒麟は、はぁと短く息をついて


「そこをどけ女。一般人は殺さぬように、これでも気を配っているのだ。」


「何が”気を配っている“ですか!?こんなに村をめちゃめちゃにして!それに…!」


私は彼の方を振り向いた。

真っ白い氷の下には、赤黒い血が見えた。そしてその真ん中には地面。

止血はできても、穴を塞ぐには至らなかったのだ。


「私の夫に……。コウキチさんに!なんてことを…!」


「やめろ!!!!!」


怒りに任せて平手打ちをしようと、私が腕を振りかぶろうとしたその時、背後でコウキチさんが叫んだ。

「ミト。やめるんだ。」


「でも!…でもでもでも…!」


やっと掴んだ幸せ。これからなのだ。

これから野菜を沢山育てて、今年の出来はどうだったねとか話したり、少し雨漏りしていた天井を二人で修理したり、いろんな事をしたいのだ。


コウキチさんは健康な身体になった。子供だって欲しい。

コウキチさんに似たら、さぞ優しい子に育つだろう。身体はどうだろうか?今みたいに丈夫であれば嬉しい。私に似れば力持ちの働き者になるかもしれない。


色んな想像がこの一瞬に駆け巡った。


「お願いです。麒麟様。どうか…、どうか夫を…。」


溢れる涙が止まらない。


今、この神を止めなければ私のコウキチさんは死んでしまう。

コウキチさんだって神様なんだ。きっと。時間が経てばこの傷だって…。


都合の良い妄想を走らせながら、私は必死になって懇願する。


「ダメだ。お前はこの男の妻だな。」


「ですが…!」


「お前は神々の法を敵に回すのかね?」


だらんとした手で私を指差して言った。


「さっきの話聞こえていたか?想像するのだ女。」


「このまま私が見逃したとしよう。するとそれは彼の伝説になるのだよ。村に来た

五大神の一人、麒麟を鎮め、村を守ったと。」


「人とは単純な生き物だ。目の前に美味いものがあれば食う。高価なものがあれば欲す。縋りたいものには縋り、実に都合よく生きているのだ。」


「女よ。彼の伝説をここで断ち切れるか?お前が。」



「わ、私は…!」


神の風格がそこにはあった。彼が紡いできた歴史なのだろうか。そもそも神として存在する、ただそれだけでこの独特の雰囲気を纏えるのだろうか。


神の言葉はもっともだった。


結核!結核!と騒ぎ立てられ、のけものにされ始め、村全体が敵になるまでに三日とかからなかった。

村の色が変わったように感じたものだ。例えるなら、こう、、、。


ダメだ言葉が出ない。



「ミト。」


あれこれと私が思考を巡らせている時、それを現実に引き戻す声がした。


「今から俺がすることを許して欲しい。そしてな……」



彼の言葉が耳元で優しく響いた。


その直後、私の身体が勢いよく吹き飛ばされた。

もう何がなんだか分からない。どこが上で下なのか。

私はどこへ向かうのか。


ビュービューと耳元で鳴る風の音は、ドボンと水の中に飛び込む音に切り替わる。

川に落ちたのだ。


必死になって水面を目指してもがく私。そうして必死の思いで水面から顔を出した時、空は眩いばかりの青白い光に包まれていた。


天高く登った麒麟の姿が、正午の太陽と重なった。


「彗星(スイセイ)…。」


私の唇が自然とそう動いた。

その刹那。


空襲にも似た爆音が響き、遅れてとてつもない風が私の身体を川の中から掬い上げ

、また何処かへと攫っていった。




ーーーーーー……。



まだ私は生きていた。いや、生きてしまっていた。

どうやら左脚が折れてしまっているようで、村までは片足を引きずって戻った。


いや、これは違う。


かつて村があったと思われるところに突如として現れた、大きな湖の畔に私はやってきた。


何も方向感覚が狂ったわけではない。

畑仕事以外にも私は金のために広く働きに出ていた。


それなりにこの辺の土地には詳しいつもりだ。


でも、私達の住んでいた村は湖の底に沈んでしまっていたのだ。



一瞬見えた麒麟の彗星。あの高さまで上がって、あの輝き。

コウキチさんは私を逃した直後、最後の足掻きに出たのかもしれない。

それが神の逆鱗に触れ、遊び感覚で放つ技ではなく、文字通り神の御業たりうる彗星を放たせてしまった。


コウキチさんはもちろんの事、大嫌いだった村の人達もみんな死んだだろう。


全身の力が抜け落ちていくのが分かる。


終わった。


何もかもが。



そこで意識が途切れ、次に目が覚めた時はどこかの病室だった。

天井から吊るされて固定された足。やはり折れていたのだ。


視線を窓に移すと、もう夕方のようで、水平線にオレンジ色の太陽が沈もうとしていた。



ああ、私の太陽。


コウキチさん。



彼を奪った、私達の未来を奪った麒麟。


何が神だ。


あれは邪神だ。


そうに違いない。


神ならきっと、咳をしながも「大丈夫!大丈夫!」とか言って、一生懸命に畑を耕していただろう。


神ならきっと、新聞で読んだだけの話を、さも自分が体験してきたかのように雄弁に語っただろう。


神ならきっと…。


私が危機に瀕した時、あの時言ってくれたように、こう言うのだろう。



「「「ミト。俺はお前を愛してる。」」」



太陽は沈んで、暗い夜が訪れる。



私の神は殺されたのだ。

ならば私は、必ずあの邪神、麒麟をこの手で必ず討ってやる。


病室の明かりが灯る頃、新たな人生の目標が私、ミトの心に煌々と光を灯していた。

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