第7話 よーいどん

「じゃあ…。始めましょうか。血の聖書の第1節を…!」


聞いたことのない聖書。


目の前に立った大人達が懐から赤黒く染まった一冊の本を取り出し、ページを捲る。



「我らが神よ

これから我らが行う所業の全てを

お許し下さいませ


全ての痛みや苦しみは

一時も忘れる事なく

歴史と記憶に刻むことでしょう


おお我らが神よ

どうぞ我らの下へ


そして我らをお導き下さいませ」



ミト婆は目を瞑りゆっくりと頭上を見上げた。

そして大きく広げられた両手を高々と掲げる。


それらがゆっくりと下されて、ミト婆が目を開いた時。


「始めなさい。」


号令が掛かった。



目の前の大人は聖書を懐にしまうと、腰に下げた何かを右手に持った。


「うわー…。」


思わず声が漏れる。


鋼鉄製のハンマーだった。


「ライラ。ごめんな。」


一瞬鼓膜を揺らしたその声は聞き馴染みのある声だった。



勢いよく振り下ろされたそれは俺の左手の拳に直撃した。


「うあぁあああああああああーっ!!!!!!」


手の甲の骨という骨が一瞬でバラバラになったのが伝わる。

まだ分かるのだ。そう…まだ。


休む間もなく、そのまま振り上げられたハンマーは今度は右肩を捉える。


「ッうぅうううううっ!!!!!」


俺の血で真っ赤に染まったハンマーが視界をブンブンと旋回している。



号令が掛かってからすぐさま、純白だった大理石でできた部屋は赤く染まり、そして鼓膜を裂くような悲鳴のこだまする、地獄の部屋と化したのだ。


周りの音が次第に聞こえなくなってきた。


いや、認識できないだけだろう。


重たいハンマーが何度も何度も俺の体を叩き潰す度に、何もかもが遠のいていくような感覚に陥っていった。


そしてまた、プツリと意識が途切れた。





ザバッと頭から水を掛けられて俺は目を覚ました。


「うぅっ…。」


さっき初めてこの部屋で目を覚ました時の感覚とは明らかに異なっていた。

全身が燃えるように痛かった。


それに呼吸が上手くできなかった。

多分ハンマーで砕かれた肋骨が肺に刺さったりしているのだろう。


ヒューヒューと空気が抜けるのだ。



「ライラ、目を覚ましました。」


俺に水を掛けた大人がそう叫んだ。

「ダンダはどう?起きないかしら?」


「脈もありません…。多分ダメですね…。」


「優しい子だったのに。残念だわ…。」


ミト婆ははぁーと深くため息をついた。



ダンダが死んだ。


そりゃ死ぬわな。あれだけ殴られれば。

乾いた笑いが頭の中で響いた。


「ダンダ!おッ…起きてェッ…!起きてェよォッ…!」


リュートの声だ。リュートも身体中が痛いだろう。それでも叫んだ。



俺はどうだ。


上手く息ができなくて声が殆ど出ない。


「ダンダァ……。」


かろうじて漏れ出たそれは、殆ど力なんてなかった。


嗚咽する事もなく、俺はただ涙を流した。



視線を左に送るとハナの姿が見えた。


真っ黒い卒業服は大量の血を吸い込んで、テカテカと赤黒い光を放っていた。

そして視線をそのまま下に移動させていくと、見たくもないものが俺の視界に飛び込んできた。


ハナの左足が、膝から下がありえない方向に曲がっていたのだ。


それを見た途端、俺の意識が一瞬にして明瞭になる。


恐怖がやってきたのだ。



「ハァ…ナァァ…。ハ…。ハナァァア…!」


骨が軋む痛みを堪えて叫ぶ。


するとハナはそれに気付いたのだろう。もたげた頭をゆっくりと持ち上げて俺の方を向いたのだ。


「ッ!!!!!」


「ライラぁ…。痛いよぉ…。」


目が、、、ハナの片目が潰れてしまっていた。



「あああああああああああ!!!!!!」


今朝方見たあの恥ずかしそうに笑う、あのハナの表情がよぎる。

ハナが作ってくれた髪留め。本当に嬉しかった。


ハナにはよく怒れもしたけど、それもハナがしっかり者だったからだ。

別に嫌いなんかじゃない。


片目を失い、血の涙を流す彼女の表情を見て、俺はやっと気が付いたのだ。

俺はハナの事が大好きなんだ。



「おおおぉぉぉおおおぉぉおおおオオオオッッッ!」


言葉にならない叫び声をあげて俺は必死に体を動かした。

千切れろ鎖。それが叶わないなら腕ごと千切れてしまっていい。

ハナを…。今すぐハナのそばに。


ハナのこんな姿。俺には耐えれない。



「ライラ。無駄よ。千切れないわ絶対に。神にでもならない限り、ね?」


無情な声。


俺は声の主の方向に首を向ける。


「グウゥウアアァ…。」


ミト婆…。


「ちゃんと聞こえないわよ?ライラ。」


「ミト…バァ…。」



アドレナリンで体の痛みなんかもう感じなかった。

ドクドクと脈打つ心臓がうるさい。

額に浮かんだ血管が、今まで感じたこともないような脈を打つ。


「ほらちゃんと言えるじゃない。神はね。人間には殺せないの。」


「即ち数多の試練を乗り越えていく度にあなた達の体は成神のそれに近づいていくこととなる。」


目を瞑って悦にでも浸っているのだろうか。

神聖な儀式の話でもしているつもりなのだろうが、俺にはとてもそんな風には思えなかった。


「まぁその過程でほとんどが死んじゃうんだけどね。」


悪びれもせず言いやがって。


ミト婆も俺達と同じ時間を共有してきたはずだ。同じ食卓を囲い、彼女から勉強も教わった。たまに怒られたり、一緒に追いかけっこしたり…。


その全てが彼女にとってはただの儀式の前座だったのだろうか。


だったら俺達のあの時間は一体なんだったというのか。



「次に行きましょう。斬って。」


そう彼女が告げると、大人達がゾロゾロとチェーンソーを持ってやってきた。

ブブブブとエンジンを鳴らすチェーンソー。


「あ、私は村に戻らないといけないから、連絡はマメにちょうだいね。」


じゃあよろしく。とでもいうようにヒラヒラと手を振って立ち去る彼女。


そうなのだ。彼女はこうして俺達との十数年を過ごしてきたのだ。



「アアアアアアアッ!!!!!アアアアアアッ!!!」


どうにかしてあのババアの首を落としてやりたい。そう瞬間的に思った。

それも虚しく、硬い鎖はびくともしない。


そうしているうちに、俺の腕にチェーンソーの刃が勢いよく走った。






また意識を失ってからどれぐらい経っただろうか。

卒業服という名の儀式用の服は、血で重たくなっており、体にべったりと張り付いていた。

ゆっくりと目を開けて、体を見る。

全身痛むものの手足はまだ繋がっていた。


ため息にも似たように、俺は一度深く瞬きをして、周囲の状況を探る。

が、それもどうやら徒労だったようだ。


あーあ。見なきゃよかった。



俺は入り口のドアから入って正面の位置に固定されている。


ドアを開いて数歩進むと階段があり、ちょうど3段降りた所が俺達が固定されてある位置になる。


その目の前の階段の2段目に、見慣れたツンツンとした髪型をした頭部が置いてあった。


見間違うはずなんてない。リュートだ。


リュートの頭部は非常に雑に階段に置かれており、目も光が消えた半開きの状態で無造作に置かれていた。



「うっ…うおぇええっ…!!!」


胸を駆け上がる嘔吐感。勢いよく吐かれたそれは殆ど血しか含まれていなかった。


「ライラ…!ライラも起きました…!!!」


大人が駆け寄ってくる。


そして俺の服を捲り、


「すごいですよ…これ…。傷がかなり治ってます。」


そう言われて俺も視線を体に落とす。

くそ。本当だ。派手に飛び散った血の痕にしては傷が浅い。

それに一番最初に斬りかかられた腕もきちんと繋がっている。


「本当だ。再生してる…。」


俺の前にやってきたもう一人の大人が言った。


「ここまでの再生速度。今まで見たことありませんね。」


「だな。」


そう言ってもう一人の大人は離れる。



俺の体なんてどうでもいい。リュートだ。

リュートも死んだ。


それもこんな酷い殺され方をして。


それにこの大人達はなんだ?ミト婆と同じくきっと村の人間に違いない。顔は見えないが、どこか聞き覚えのある声が飛び交っているのだ。


なら、彼らはあの…。あのリュートの姿を見て何も感じないのだろうか?

生意気なセリフを吐いて、元気に走り回っていたリュートのこの姿を見て。


それに、ハナは?ツキコはどうなった。

俺はハッとなって周囲を見渡す。


俺の右隣にいたリュートの首のない体は、のけぞるような形でダラダラと血を流していた。腹部からは大きく切り裂かれた傷口から内臓がこぼれ落ち、もうこれがかつて「生き物」であったことすら想像できないほどに損壊していた。


その更に右隣にツキコの姿があった。

だらんと右に傾く形で首をもたげた彼女の背中。

その背中はわずかに上下していた。


呼吸している。生きているだ。


次に視界に飛び込んできたのはハナの姿。

彼女はぼーっと天井を眺めていた。


そして彼女の足元には雑に切り落とされた、彼女の両足が落ちていた。


俺達はたった数時間でボロボロだった。

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