懺悔

かまつち

懺悔

 私は跪いていた。頭を下げ、両手を前に組んでいた。どこへ向けての祈りの姿勢なのか、それは私にも分からなかった。時刻は日暮れで、陽が少しずつ地平線の先へ姿を隠しつつあるからだった。私の住むアパートへの陽光が薄まっていき、部屋は暗くなっていく。ただ部屋には、森の中の湖に似た静かさがあった。その中で私は、祈りの姿勢を保ち続けていた。


 ただ大した訳もなく、そうしていた。顔は恐らく無表情で、鏡にその顔を映せば、仏頂面の、愛想の無い顔をしているだろう。そこまで真剣ではないと思う。ただ自分の思いを愚痴りたいだけなのだろう。


 膝から下は、部屋の中央に敷いてあるマットの上に置き、負担を和らげていた。これから私は懺悔をする。まだ三十にも満たない年齢の人間ではあるが、罪というものは、全ての人間に生まれながらに、鎖のように存在するという。人生経験が浅い私が懺悔などという大それたことをやったって問題はないだろう。少なくとも、誰にも見られることなく済ませてしまえば、問題はない。


 私は私を縛りつける、この錆びてしまっていそうなほど長く続く罪悪感から解放され、少しでも人生というものの辛さを和らげることを期待しているのだ。




 私の中にある罪、罪の告白をするには、まず、己の罪を知り、そして、それを認めねばならない。この告白を始める前、私は少しだけ、自分の罪を探していた。元々浮かんでいたものが一つだけあったのだが、それ以外にも何かあるはずだと考え、もう一つ、自分の罪というものを見つけた。


 私という人間は常にぼんやりとした思考の中で生きている人間なのである。このような、不真面目さを匂わすようなことをしてしまったことに関しては許していただきたい。ただ、私という人間には、余りにも、身に余るほどの罪があり、それ全体の中から一部を探すのには少し手間がかかるのである。


 まるでこの鎖は、私の心臓を縛っているかのようで、私は、コレに息苦しさを覚えさせられているのかもしれない。私は長年私を苦しめつつある彼らの罪から解放されたいのである。そろそろ、懺悔を始めよう。ただ、この告白は、私だけが知っている。つまりは独白になるのである。




 私の告白する罪というものは、それはやはり、私の人間としての弱さ、愚かさになるのであろう。つまりそれというのは、私の怠惰と、共感性の低さにあると思うのだ。まずは、私の一つ目の罪、怠惰について語ろう。


 と言っても、私の言う怠惰というものは、それはそれは、平凡でつまらないものなのかもしれない。しかし、それでもこの罪は、いつまでもしつこく私の人生に影響を与えてきたのである。だからこそ、どんなにこの罪が知られていても、他人が同じ罪を抱えていても、語るべきなのである。


 私の怠惰というのは、純粋に働くこと、勉強をすること、つまりは、何かに労力を費やすということが嫌いだという感情から生まれたものであった。私は、本質的に怠惰であった。私はそのような怠惰さゆえに、学生としての本分を果たせず、日々をSNSや動画サイトなんていうもので浪費しているのだ。


 また、労働という、経験したこともないことを、なぜか、嫌っているのである。もしかすると、私という人間が、まともに社会の中で、働くことなど不可能だと私自身そう思っているからかもしれない。まあ、とにかく、私は、努力や労働が苦手で、嫌いなのである。


 私という人間は生まれつき、このような怠惰を抱えていたからか、思考というものが苦手だった。私は、このような無思考さから、余計に、この怠惰というもののもたらす不幸や、問題に気づくことが中々できず、余計怠惰でいることが心地よく感じられていたのかもしれない。


 私がもっと思考することの得意な人間なら、これ以上罪を増やすことも、苦しむこともなかったのかもしれない。この怠惰というものが、私の原罪なのだろう。こんなものを受け入れなければならないのかと思う。




 次に、私の共感生の無さというものについて語ろう。しかしこちらも同じく、そこまで大層なものでもない。私の人間としての落ち度の一つであるだけだ。それでも今の私を形作る要素の一つであるに違いない。


 共感性の無さというのは、単純に、他人の気持ちを汲み取ることが苦手であるということ、そして、私が捻くれ者であるということだ。


 私という人間が思考を苦手とすることは、先程も伝えたと思うが、この共感性の無さの大きな原因の一つがそこにあるのだと、今にして見れば、そう思える。


 私には人の気持ちを理解するための能力と経験の両方が極端なまでになかった。他者の心に鈍感であるために、私の言動で人が傷つくことも少なくなかった。


 気づいた時には、手遅れな時が多かった。多くの人との関係を築く機会を、このことのせいで失ってしまったと思う。


 人とのコミュニケーションが下手な私は、純粋な、人との関係を築くことができないと絶望してしまって、人との関わりが苦手になっていった。自分と親しくなろうとしてくるような人間には、何か悪意があるのではと疑うようにもなった。人の好意や善意が素直に受け入れられなくなった。


 私に関わる人間はいつの日か、私を裏切り、その化けの皮の内を露わにしたり、または、愛想を尽かしてどこかへ行くのではないかという考えが脳に張りついてしまった。たとえ、それが私の友人、家族、いかなる人間であれ。


 いくらかそのような恐怖は最初に比べて、薄れているが、やはりはっきりとそのような考えはあった。




 いつの日か私は、この二つの罪によって、裁かれる日が来るのだろう。いつの日か私には、孤独で、何も変化が訪れることのないような、哀れっぽい、灰色の日常が長く、長くやって来るのだろう。


 絶望の日々の訪れに長く恐怖している私の心は疲れ切っていた。胸いっぱいに窮屈な感じが広がり、それが私を余計に疲れさせた。過去に抱いていた希望や熱情というものは、私の価値観というものは、灰となって崩れ去っていった。私の積み上げてきたものは慈悲もなく、失われていった。


 私の素晴らしき日々は一転し、色褪せたものとなった。絶望に対する怒りや反抗心というものは、徐々に薄れていき、とうになくなっていた。残ったのは、全てへの嫌悪感と諦め、あとはその他の、少々の感情だけだった。




 世の中の多くの者たちが、惰性の日々を送ることを望んでいるだろうに、なぜ私はこのようなことで苦しまなければならないのだろう。なぜ私は、本来喜ぶべきこの怠惰を罪としてしまっているのだろう。


 労働というものを嫌う者は少なくないはずだ。ただ日々をインターネットで費やしたがっている人もいるはずだ。自分だけが怠惰である訳ではない。


 私はただ、生まれつき、怠け癖があっただけなのだ。ある意味、本来の自分の内面の一つであるのに、それを認められず、罪としてしまっている。自分への愛などというものを捨て、自己嫌悪を募らせてしまっている。愛すべき自分を愛することができない。ただ、それが己の罪の一つだと言って、呪いをかけている。


 怠けることが好きであったのに、勤勉であれという考えが、それをなくしていった。素晴らしき自己愛を台無しにしていきやがった。周りに足並みを揃えようとして台無しにしてしまったようだ。




 他人への共感性のなさもそうだ。はっきり言って私の両親はそれほど良い親ではなかった。彼らは、私にモラルというもの、常識というもの、人の気持ちの汲み取り方というものを教えてくれなかった。ただ子供らしく、生きることだけを求めてきた。


 学校でも人の気持ちの汲み取り方など学ばなかった。学んだのは、他人にいかに表面を取り繕えばいいかだけだった。私はただ方法を学ぶ機会がなかった。


 このままで良いのだと、この状態が心地良いのだと、少年の時、その何も学ぼうとしなかった私の、怠惰さと、このような環境のせいだ。


 私が捻くれ者であったのは、人の優しさを素直に受け取ることができなかったのは、人の気持ちを知るのが苦手で、相手の好意を疑うことしか知らなかったからだろう。


 人の気持ちを推し量る術を知らない私には、ただ相手を疑うことしかなく、私に好意を示す人間が胡散臭く見えるのだった。


 いつか、彼らが、私を見放す未来と、裏切る未来しか、見えないのだ。私は醜くなった。子供の頃の純心を手放した私は、まるで、地獄の底を、卑しくも救われようと這う愚かなカンダタのようだ。




 少年の頃の私には、尊敬していた人や好きだった人がいた。憧れを持っていた。特別な力を持っていて、とても強い人間が好きだった。あの頃の自分には、あらゆるものが光って見えた。そういう良いものへの感受性が豊かだったのだろう。


 しかし、自分が、多くの罪、欠点というものを抱えていることに気づけば、気づくほどに私の中には、将来への曖昧な不安が、絶望が溜まっていき、私の純心は濁っていき、次第に豊かな感受性も、私の憧れという特別な感情も消え失せていった。そのようなものを持つ余裕がなくなったのだろうと思う。


 それ以来、私が少年の時に持っていた情熱のような感情が戻って来ることも、新たに生まれることもなく、私の怠け癖はどんどん悪化していった。自分の中にあった好みも、趣味も、価値観も、全て失われたか、私を裏切ったのである。


 過去の自分からの裏切りや、勤勉であれという呪いに、もしかすると、今の自分は苦しめられているのかもしれない。


 そして、今の自分が、未来のお前には無理だとそのような成長を、呪いを解くことは不可能だと、見限っているのだろう。




 今の私にはもはや、なんの信念も執念もない。ただ人生の意味や価値というものを見出すことも出来ず、惰性で生きている。ただ無為に生きているこの人生に対して、巨大な虚無感を感じている。


 ただ灰色の如き感情が湧いて出てきている。挙げ句の果てには、人生というものは結末が決まっていて、どのような生を歩んでいてもそれは変わらないのだという考えが、諦めの感情の下生まれたその思考が、私の脳の一部を占めるようになったのである。そのような諦観も相まって、私は努力をするという甲斐性もなく日々を過ごすようになった。


 私は今でも時折こう思う、私に何か執念というものが、あるいは、信念というものがあれば、自分はここまで、色褪せた日常に、絶望と窮屈に囲まれた日々に囚われることもなかったのではと。

己の怠惰を上回る情熱があれば、私はここまで、不幸を感じることはなかったのではと考えてしまうのである。今はもう変えることのできない、そのような事実に対する後悔が、私の中にはあった。


 しかし、やり直すことの出来ないことへの諦めが、そのような苦しみを伴う後悔から解放してくれるのである。無情なまでに、そして狡猾に、弱い私の心を。




 私の懺悔と、自分のための言い訳はこれで終わった。ただの気まぐれから始まった彼らの行いが、私の罪を軽くしてくれるということはなかった。


 自分の罪に対する意識と図々しい自分の性質への自己嫌悪をより強めるだけで終わった。より胸の苦しみを感じられるようになった。


 私は姿勢を崩し、痺れる両足を伸ばした。どこに焦点を合わせることもなく、虚を見つめていた。思考は曖昧だった。


 ただいずれ訪れるであろう、審判の時を想っていたり、それまでに迎えるだろう苦しみの日々のことを想っていた。


 見えざる者は、私の罪を許してくれるだろうか、いや、彼が許すわけないだろう。


 私は立ち上がり、自分の心を麻痺させてくれる、有難い魔法の飲料を、冷蔵庫から取り出しに行った。


 せめて、これ以上、私が新たな罪や、さらに深い虚無感、自己嫌悪、劣等感を迎えることがないことを祈り、そして私は取り出した缶の蓋を開き、内容物を一気に体内に流し込んだ。

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