第2話 第一章 別れと出会い その1

「ただいまー」


 外から見て家には明かりが点いていなかったから誰もいない事はわかってはいたが、玄関を開けてつい言ってしまったのは仕方がないと思う。何せこの言葉を再び使う様になったのはここ数年の事。以前は家に人がいても返事が返ってくる事はなく、その内無言で家の中に入る様になっていた。しかし今は違う。未だ少し照れ臭いが使いたくて堪らないのだ。


 アオイは今日も帰りが遅いのだろうか。最近は忙しそうにしていて学校に泊まり込む事もあった。しかし今日は流石に遅くなっても帰って来るはず。何故なら明日はわたしの誕生日。互いの誕生日の朝を共に迎えるのはここ数年の恒例行事となっている。


 明日は二人ゆっくりと家で過ごすつもりで休みも取った。今晩から存分に甘えて日々の仕事の疲れを癒してもらうつもり。それもあって帰りに少し多めに買い込んだ食料品を冷蔵庫へ仕舞う為にリビングへと向かった。


 ……ん?


 リビングの明かりを点けるとテーブルの上に置いてあった紙に目が止まる。それには嫌な予感しかしなかったが見なかった事にする訳にもいかない。


 …………。


 恐る恐る手に取って目を通すと、一瞬目の前が真っ暗になった。


 ……あぁ……。


 そして愕然として身体が強張る。しかしそこに書かれていた内容については、最近薄々と感じていた事があった為、心の深い所にストンと何かが落ちる音がして我に返った。お陰で手は震えていたが手紙は落とさずに済み、嫌だが目を逸らす事無く読み進められた。


『柚木、今までありがとう』


 それはお礼の言葉から始まる恋人アオイからの別れの手紙。


 続く謝罪の言葉の後に『こんな物くらいしか残せなくて心苦しいのだけど、置いていく服や時計、車等は好きに処分して欲しい。今までお世話になったせめてものお詫びとお礼に』と書かいてある。そして『家の鍵は扉を閉めた後に車の中へ入れておく』ともあった。見れば手紙の下には車の鍵が置いてある。それに気付くと急いで鍵を握り締め、買って来た物をそのまま放置し玄関に向かって駆け出した。


 外へ出ると先程帰って来た時には特に気にしなかったが、庭先にアオイのオートバイが無いのに気付いた。恐らくそれに乗って出て行ったのだろう。しかしそんな事よりも今は車だ。


 車の前で一旦深呼吸してからゆっくりとドアを開けて鍵を探すのだったが、それはすぐに見つかる。


 ……ッ!

 

 そこには見慣れたわたしとお揃いのキーホルダーが、ハンドル下にある車の鍵が刺さる場所にぶら下がっていた。


 しかし見つけはしたがそれをすぐに取る事はしない。一旦車の中に乗り込むとシートに身を沈めてからゆっくりと鍵を引き抜いた。そこから出て来たのは予想通り家の鍵。


 ……あぁ……。


 それを手にした瞬間、現実感がどっと押し寄せて来て胸が押し潰されて痛くなる。


 そうさせたのは家の鍵では無い。鍵に付いているキーホルダーがここに置いてある事実によるものだった。


 ……これも置いていくのね……。


 このキーホルダーはアオイと共にこの家で暮らす事になった時に二人で一緒に選んだ物。特に高価な物でもなんでもないありふれた物だが、わたしにとっては特別な物だった。普段貴金属を身に付ける習慣があまり無い二人にとって、数少ない繋がりを感じる事が出来る物。少なくともわたしはそう思いながら大切にしていた。それが今ここにある。


 ……もう、何も考えたくない……。


 そのまま思考を放棄し車のシートにもたれ掛かると静かに目を閉じた。


 車内には染み付いているタバコの匂いが漂っている。慣れ親しんだ匂いだ。目を瞑るとその匂いが主張し始めた。思わずアオイに抱きしめられているかの様な感覚を覚えたが、しかし一番欲しい温もりは感じない。それがわかると余計に物悲しくなって来る。


 大きな物、小さな物、匂い。その残された一つ一つに、もう二度とアオイとは会えないないのだと否応なく実感させられて、感情が昂り自然と涙がこぼれ落ちて来た。


 ……また一人ぼっちになっちゃった……。


 でも大丈夫。こんな状況には慣れている。どうすれば良いのかもよく知っている。問題ない。それに明日は休みを取っていたから仕事にも影響は及ぼす事もない。これは幸いだ。流石わたし。用意がいいね! ……等と強がってはみたものの感情には逆らえない。


 手にしていた手紙をクシャクシャにして顔を埋めるとそのまま泣き腫らしてしまった。

 


        ◯



 一人ぼっちなのだといっても、わたし橘柚木は何も天涯孤独な身の上な訳ではない。一応両親に弟妹もいる。「一応」なのは家庭に問題があって複雑だからだ。


 わたしが小学校に上がるまではごく普通のありふれた家庭だったと思う。幼い時分の記憶は曖昧だが、少なくとも冷遇はされておらず、むしろ可愛がられていたと思う。それがガラリと変わってしまったのは弟が亡くなった時からだ。


 幼い頃は夏になると四国にある母方の実家に預けられてそこで過ごすのが恒例になっていた。親は少しの間でも子供を預けてその間ゆっくりしたかったのかも知れない。


 そこには自然溢れるのどかな田舎。澄んだ小川が流れており草木のむせかえる様な緑の匂いに溢れている場所だった。中部地方の郊外育ちのわたしには、その何もかもが興味深く魅力的に感じて滞在中は毎日の様に山を駆け回って遊んでいた。そして弟がある程度大きくなると一緒に行く様になり、わたしはお姉ちゃん風を吹かして連れ回していたものだった。


 そんな夏のある日、いつも同じ場所ではつまらないと言い出した弟の手を引いて、祖父母達から行ってはいけないと言われていた場所に行ったのだったが、そこで事件が起こる。


 その場所は見た目的には慣れ親しんだ祖父母の家の周りと対して変わらない山だったが、子供心に少し不思議な感覚を覚えた。その一帯に足を踏み入れると心地良く感じ、ずっとその場に居たい気にさせられた事を覚えている。その場に漂う空気感が違っていた。そしてそれが特に強く感じる場所があった。弟とわたしはそこへ誘われる様にして更に山の奥へと足を踏み入れて行く。着いた先には古い大木があり、一帯には白いモヤが掛かっていた。わたしはそれを見た瞬間、えもいわれぬ高揚感に酔いしれるのだったが、それは弟も同じだった様だ。


 突然弟は恍惚とした表情になり、繋いでいた手を離してモヤに向かって走り出した。恐らくわたしも一人だったら同じ行動を取った事だろう。しかしそれはしなかった。いや出来なかった。わたしはその場で立ち竦んでしまう。


 それは弟の手を離してしまった事が原因だ。


 弟と外へ遊びに出る際は片時も手を離してはいけないと言い付けられていた。それで叱られてしまうと考えたというよりも、その時は姉としての尊厳を手放してしまったのだと感じたのだろう。何れにしても一瞬足が動かなくなる。それは弟が少し行った所で突然倒れ、そのまま動かなくなってしまったのを見たからだ。愕然として立ち竦んでしまう。


 途端に今まで纏っていた空気が、心地良いものから嫌悪するものへと変わり、恐怖で震えが来た。そして気が付く足が動いて走り出していたのだったが、それは倒れている弟の元へではなく、その反対方向へと逃げ出していた。


 結果として弟はその場で亡くなってしまう。


 倒れた際に胸を打ったのか暑さにやられたのか、それともあのモヤには何かしらの毒素があって……。直接的な原因は知らないが死因は心不全だったそうだ。言い訳に過ぎないが、当時の幼いわたしではあの時弟の元へ駆け付けていたとしても何も出来なかっただろう。しかし母からしてみればそんな事は関係なかった。


「なんであなたが一緒にいながら!」


 母だけでなく祖父母からも責められた。「……柚木があの子の代わりになっていれば……」とまで言われたかどうかは記憶が曖昧で定かではないが、似た様な事は確かに言われて深く傷ついた。


 その後、溺愛していた息子を亡くした母の焦燥は酷く、気が触れてしまうまでにはそう時間が掛からなかった。そして暫くするとわたしを罵りながら自殺してしまう。それが元で母方の祖父母とは疎遠になり、その後わたしが祖父母の元へ行く事は無くなった。


 そんな中、父はというと弟が亡くなった辺りからわたしを疎み始めてぞんざいに扱われる様になり、母が亡くなった後は完全に無干渉になった。それなのに施設に放り込まれなかったのは世間体を気にしてだったと思う。父は外面だけは良かった。その後父は再婚をするのだが、その彼女はわたしにとっての新しい母親にはならなかった。そして弟妹達が産まれて新しい家族が出来て行くのだったが、みな父同様にわたしの事をいない者として扱った。


 ただ家族から手を上げられたとか明確な虐めを受けていた訳ではない。食事は与えられていたし学校にも行かされた。しかしその家族とわたしの間には、かつては知っていた家族の繋がり的なものは全く無く感じられず、家庭内でのわたしの居場所は無かった。


 わたしは徐々に物事を深く考える事を止める様になる。心の中に蓋をした。感情を抑えて表には出さなくなる。押し殺した。それはそうしなければ、何れは産みの母と同じ様に心を病んで壊れてしまうと感じた事から来る自己防衛本能なのだろう。それで出来上がったのは、言われた事は素直にハイと聞き入れて行動するが自ら進んでの行動は起こさない、自分の無いつまらない子供。当然そんな事では学校でも浮いた存在となり友達なんて出来る訳もなかった。幸いな事に学校でも虐められたりする事はなかったが、やはり常に一人だった。


 家に居場所があるのならば引き篭もりにでもなっていたかも知れない。反抗する心が残っていて、多少でも社交性があれば悪い道へと進んでいたのかも。しかし何も持っていなかったわたしは、学校の図書室や街の図書館へと足を運ぶ。そんな場所しか居場所がなかった。


 ただそこで本の虫になったり熱心に勉強をしていた訳ではない。欲求から本を手にする事はなかった。ただ適当に、その時に理解出来る軽い読み物を手に取ってはパラパラと目を通していただけだった。結果として読書量は相当なものになっていたが、しかし内容は全く頭に入っておらず身にも付いていない。あれだけ本を読んでいたのに関わらず目を悪くしなかった事からも、如何に真剣に本を読んでいなかったのかがよくわかる。ただ、物語りの世界に浸っている時だけは現実から離れられる様な感じがして、それが心の平穏を保つ為には必要な事なのだと、どこか心の奥底で微かな欲求があり本を読み続けていたのかも知れない。場所を提供してくれた行政に感謝します。


 そんなわたしにも一人だけ気に掛けてくれる者がいた。父方の祖母だ。


 彼女は既に伴侶を亡くし遠くに一人で住んでいたが、一人息子である父とは折り合いが悪く、以前は互いの行き来は殆ど無かった。しかしあの事件以降、わたしの事を気遣かい、足腰が悪いのを押してたまに家に来ては父と揉めていた。


「アンタ! 柚木の事を何だと思ってるんだい!」

「何だと言われても、衣食住不足無く与えていますよ。何も問題はありません」


 当時のわたしの状況を見て、祖母は幼い内から引き取る事も考えていたのだそうだったが、しかし父はそれを良しとしなかった。それはもちろん愛情からではない。


「自分の都合で子供の人生を弄ぶんじゃないよ!」


 当時のわたしには、祖母が何故こんなにも怒っているのか不思議に思えた。


 義務教育を終えると地元の公立高校に通わさせられる。当然ながらその進路も自分の意思ではなく父の意向によるもの。そして卒業後はどこかに就職して家を出る様に言われた。


 これで父としては、親としての責務を果たす事になるのだと考えていたのだろう。その事について当時のわたしはもちろん反発する事はなく「はい」と素直に受け入れる。そこには何の感情も湧かなかった。しかしそれについて異議を唱える者がいた。祖母だ。


「こんな状態の子を社会に出すだって!? バカな事を言ってるんじゃないよ!」


 祖母曰く、当時のわたしは本当にどうしようもなかったのだそうだ。社会性はゼロ。こんな状態で一人外に放り出したらすぐにも事件に巻き込まれるか引き起こし、目も当てられない事態になる事は明白だったとか。


「もういいだろ? この子の今後はアタシが面倒見るよ!」

「構いませんよ。お好きにどうぞ。これで私は親としての義務を果たしましたから」

「どの口が言うか! もういい! 柚木もそれでいいね!」

「はい」


 その時の祖母は、済ました顔で対応する父と無表情で頷くわたしを見て、情けないやら悲しいやらで泣きそうになったのだと後に語ってくれた。

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