第15話 修羅

 目的の部屋の前で、雛は息を整えながら胸を押さえた。

 逸る心に合わせ、心臓の音がやけにうるさく聞こえる。


「ここだ……」


 屋敷の見取り図や部屋の位置は事前に確認済みなので、間違えることはない。


 緊張しながら、雛は目の前にある障子しょうじをそっと開いた。

 部屋の真ん中で、布団に眠る男が目に飛び込んできた。


 雛は音を立てないように慎重に近づいていき、男の側で佇む。

 そっと刀を抜き、男の胸に切っ先を向けた。


 手が小刻みに震える。

 初めて人を殺すのだ、無理もない。


 それに、雛にはまだ迷いがあった。

 本当にこれしか道はないのだろうか……人をあやめない別の道があるのではないか、と。


 しかし、伊藤の言葉を思い出した雛は、決意を固める。


 これは大義のため。

 平和で皆が笑って暮らせる世をつくる為なのだと、自分に言い聞かせる。


 そのとき、男の目が突然開いた。その瞳が雛を捉える。


「貴様っ、何者だ!」


 雛は目が合ったことに動揺し、少し動作が遅れてしまった。

 その間に男は雛のもとから逃げ出した。


「であえ! であえ!」


 男の掛け声に、四方八方しほうはっぽうから護衛たちが姿を現した。

 あっという間に雛は取り囲まれてしまった。


 もうやるしかない!


 雛の目つきが鋭く変わった。


「……何奴なにやつ

 貴様、大名の命を狙ってただで済むと思うのか? 皆の者かかれ!」


 剣士たちが一斉に雛に飛びかかる。

 はじめに斬りかかってきた三人を、目にも留まらぬスピードと鮮やかな剣さばきで風の如く斬り倒していく雛。


 その様子を目の当たりにし、後に続こうと構えていた男たちがたじろぐ。


「な、なんなんだ!」

「こいつ、ただ者ではないぞっ」


 雛を警戒し、皆が一歩下がる。


「ええい! 何をしている! かかれ!」


 大名が怒鳴り散らすと、男たちは勢いよく雛に襲いかかってきた。

 一人、また一人と雛は返り討ちにしていく。


 最後の二人が同時に攻撃をしかけたが、雛はいとも簡単に二人の男を鮮やかに斬り捨てた。


 雛の表情も、その目つきも、いつものそれではなくなっていた。


 護衛の男たちは全員雛にやられ、床に伏している。

 その惨状を前に、大名の顔が歪んだ。怒りと恐怖に満ちた顔で雛を見つめる。


「なぜ……私を狙う?」


 大名の問いかけに、雛がその鋭い目を向けた。


「あなたが悪事を働くからでしょう……自分の胸に手を当てて、考えてみるといい」


 雛がゆっくりと大名へと近づいてくる。

 大名の体は震え、心からの恐怖を感じた。


 それほどまでに、雛から放たれる殺気は恐ろしいものだった。


「何を言う! 悪事などではない。

 民は私のために存在するのだ、私に尽くすのは当たり前だ。

 ……わかった! おまえ、私の護衛になれ。そうすれば贅沢をさせてやるぞ。

 何が欲しい? 欲しいものはなんでもくれてやる!」


 大名は勝利を確信したような笑みを浮かべ、雛に問いかける。

 しかし、雛の大名を見る目つきは相変わらず冷たく、鋭い光を放っていた。


「私に、欲しいものなどありません」


 淡々と言うその声音に、底冷えするような恐怖を感じた大名の顔は青ざめていく。


「では……どうすればいいのだ?」


 大名はおののきつつ、雛の表情を必死に汲み取ろうとする。

 しかし、返ってきた言葉は期待を裏切るものだった。


「……死んでください」


 大名の瞳が大きく開く。

 何か言おうとしたが、そのときにはもう既に雛の刃が大名をつらぬいていた。


 一瞬の出来事に何が起きたのか把握できない大名だったが、じわじわとやってくる痛みで事態を把握する。

 大名を貫く刃の先から、血がポタポタとしたたり落ちていく。


「くっ……き、きさま……ゆる、さ……ん。

 この、ままで……すむと、おも……う……なっ」


 雛が刀をすばやく抜くと、大名はズルズルゆっくり倒れていく。


 そのとき、ようやく宇随が姿を現した。


「雛!」


 声に反応し、雛はゆっくりと振り返る。


 その雛の様子に宇随は愕然とした。いつもの、雛じゃない。

 感情のない虚ろな表情で、今意識がしっかりあるのかないのかも判別できない。

 しかし、目だけは鋭く、しっかりと獲物を捕らえようと光を放っている。


 ……今の雛に狙われたら、きっと誰も生きて帰れない。

 そう感じるほど、雛は殺気と狂気をはらんでそこに立っていた。


 見つめられた宇随は、初めて雛に恐怖を感じた。


「おい……大丈夫、か?」


 一歩踏み出した宇随は、近くで倒れている男に蹴躓けつまずいた。

 その男が小さくうめく。


「生きて、る……?」


 どうやらここに倒れている男たちは大名を除き、皆生きているようだった。

 雛が情けをかけて生かしたのだろうか。


 宇随が雛を見つめる。


 雛は血に染まった刀を持ったまま、ただ立ち尽くしている。

 こちらを見てはいるが、焦点はさだまっていない。


 宇随は近づいていき、雛の正面に立った。


「雛、もう終わった! 終わったんだ。……よく、やったな」


 そう声をかけるが、雛の反応はない。虚ろな目で見つめてくるだけだ。


「雛! ……雛っ!」


 宇随が雛を強く揺すると、正気に戻ったのか、雛は目を何度か開閉させる。

 そして、ほんの少し光が戻ったその瞳で、宇随を見つめた。


「え……宇随さん? どうしたの?」

「どうした、じゃねぇ。おまえ、大丈夫なのか?」


 宇随が心配そうに雛の顔を覗くと、雛は不思議そうな顔をして首を捻った。

 その瞳は、先ほどの狂気じみたものではなくなっていたが、いつもの彼女のものではないような気がする。


「どういう意味ですか? 私は大丈夫ですよ。

 さあ、神威さんのところへ行きましょう」


 宇随を置いて歩き出す雛。


 雛のその変わりように、驚きと戸惑いを隠せない宇随だったが、どうしていいかわからず、その時は雛の背中を追うことしかできなかった。

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