第12話 緒方洪庵

          △12 緒方洪庵


      ・磯沼の浚渫がおわる。

      ・村人の笑顔ひろがる。

      ・関西から下って江戸の塾で医学を学んでいた緒方洪庵(こうあん)、飢

       饉の状況を見るため、江戸を出、成エ門宅に投宿する。

      ・緒方洪庵;1810-1863。忠治と同年生まれ。蘭方医。備中(いま

       の岡山県)の人。号は適適斎。江戸で蘭学をまなんだのち長崎にお

       もむいてオランダ人とも接す絵宇。大阪に適々塾(適塾)を開く。

       塾生や門人は2千人とも3千人ともいい、中に大鳥圭介、福沢諭吉、

       橋本左内、大村益次郎ら偉才が輩出する。

      ・忠治、成エ門宅。

成エ門「お蔭で助かりました。親分みたいな人がお役人に一人でもいてくだすった

   ら――ハハハ。大仕事が終わったばかりなのに愚痴をいっては申し訳ない。

   親分、どうです。役人の手前があるのでおおぴっららにはできませんが、少

   しお神酒を。

忠治「上州で汗を流し、上州の美酒で腹ん中を洗って、肝胆相照らす。うれしいこ

   ってすなあ」

成エ門「いま、珍しい客人も来ておりましてね」

忠治「どっかの親分でも投宿しておりますか」

成エ門「もともと上方(かみがた)の人なんだそうですが、いま江戸でオランダの医

   術を修行しているそうですよ。ですがこの飢饉、江戸を離れて見聞してるん

   だそうで。たしか文化七年ていってましたから親分と同じ生まれどしでよ」

     ・顔を別の方に向けて。

成エ門「おーい誰か、離れのお客人を呼んでおくれ」

     ・まもなくして緒方洪庵が部屋に入ってくる。

     ・ひととおりのあいさつが済んで。

忠治「医術ってえのを修行していなさるとか。その方が何でこんな所を見聞なさ

   るんですか」

洪庵「人を一人ひとり診る薬師(くすし)も大事ですが、いまこの国は、国も病気です

   からナ-。そういう療養所がなくちゃー、と思いまして」

     ・洪庵、そういってクスンと咲(わら)う。

     ・薬師は医師と同じ意。

成エ門「忠治親分、ね、面白い方でんしょ。この辺だけ見てたんじゃ分からないが、

   世の中いろいろな人がいるもんですなあ」

忠治「あっしみてえな博奕打ちから国の薬師まで、たしかに面白れえが、成エ門の

   旦那だって相当面白えですぜ」

成エ門「わっしがですかい? ヘェーー」

忠治「名主の旦那が博奕打ちと組んでどぶざらいするなんざ聞いたことがねえ。旦

   那も国の薬師ってえいうんじゃねえんですかい。およそ度胸がいい。普通は

   おれみてえな者にはおっかなくて寄りつかねえんだが」

成エ門「何を何をいわっしゃる忠治どん。博奕で稼いだあぶなっかしい銭を沼ざら

   いに使ってくれる方と、民百姓が稼いだきれいな年貢を自分たちの贅沢に使

   いきる役人方と、本当にどぶに入ってもらいたいのは……」

      ・といって。成エ門、忠治と洪庵に意味深な目を向ける。

洪庵「――ということでんな。役人と上つ方の連中の病いが最も重いでんな」

成エ門「ということで」

      ・成エ門、家族の者に酒を出すように声をかける。

成エ門「揃えたものを出しな」

     ・向こうから、女の声が反応する。

女声「はーい」

      ・酒肴を持ってお華が現れる。泥さらいをしていた姿とはまったく違

       う。清楚でたおやか。

成エ門「お華、一杯お酌をしてゆきな」

お華「親分さんと緒方先生なら、二杯だって三杯だってしてゆくわ」

成エ門「おいおい、華にそんなに居られちゃまた困る」

忠治「お華ちゃんてえと、昼間の泥さらいの――へええ、分からなかった」

お華「親分さん、どちらの華がよくって?」

成エ門「華、親分さんにそんなぞんざいな口ーきくんじゃないよ」

忠治「才気煥発な感じでいいじゃないですか」

成エ門「ほら、緒方先生にお酌申したら下がれ下がれ」

     ・お華、緒方洪庵に酌をしながら。

お華「緒方セーンセ、もう覚えました。きのう教わった蕪村(ぶそん)」

     ・蕪村とは与謝(よさ)蕪村(1716-1783)のこと。

洪庵「ほう、面白いですか。ああいうのが」

お華「ご披露しましょうか」

     ・成エ門、ちょっと困り顔で。 

成エ門「何だか知らんが、おまえが来ると席を乗っ取られる、早く下がらんか」

洪庵「いやいや、親分さんにはご迷惑かも知れませんが、一つ聞かせていただきま

   しょ。お華はんがどんなふうに覚えたか」

     ・お華、咳払いして。

お華「はい、それでは」

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