その8 認知バイアスってなんなんですか?
「はいっ。これは、真白ちゃんの分」
「あ、ありがとうございます。おいくらでしたか?」
手渡されたメロン味の棒アイスに、お財布を取りだそうとしたら。
「いいよいいよ! オレ高校生だし、こう見えてバイトもしてっから、このぐらいは大丈夫だって」
「で、でも、バイトということは、あなたが一生懸命に働いて得た対価ということですよね? やっぱり、なおさら自分の分は自分で出します! お小遣いはもらっているので」
「あはっ。真白ちゃんは、珍しいぐらいにまじめな良い子なんだね~。じゃさ、そのアイスは、オレがきみを話に付きあわせた対価とでも思っておいて」
「う、うーん……。釈然としないけれど、わかりました」
「うんうん。それでよろしい」
幸人さんは、わたしの座っていたベンチの隣のベンチに腰かけると、早速自分の分のメロンアイスを食べはじめた。
わたしたちは、図書館近くの、すこし広めの公園にやってきていた。
遠くの砂場で、小さな子どもたちが無邪気に遊んでる。
昔のわたしは、あんな風に、友だちの輪に混ざって笑っていたんだけどなぁ。
「んー、うま。良い天気だし、公園でアイス日和って感じだな」
さびしい気持ちにのみこまれる前に、間の抜けた幸人さんの声が隣から飛んでくる。
「溶けちゃいそうだし、真白ちゃんも早く食べたら?」
「はい。いただきます」
それにしても、油断してフルネームを教えたとたんに、こうもナチュラルに名前で呼ばれるとは思ってもみなかったなぁ。
今は、家族以外で真白と呼んでくれるひとがいなくなっちゃったから、新鮮というか、むずがゆいというか、ちょっとヘンな感じ。
幸人さんって、瀬川くんとは、性格が全然違う。
同級生の男の子よりも大人っぽいっていうか、チャラそうっていうか。どっちかというと後者寄り……?
「なに考えてんの? しぶい顔になってるよ」
「いえ、なんでも。……ん! このアイス、すごくおいしいですっ」
「でしょー?? オレのお気に入りの果物アイスだからね!」
幸人さんは、食べ終えたアイスの棒をわたしの分までさらりと捨ててきて、再びベンチに戻ってきた。
「あのアイス、理人も好きなんだよね」
「ふ~~ん……。そうなんですね」
「あ。いま、ニヤついた?」
「そ、そんなことはないですっ!」
「えー、そうかなぁ? 真白ちゃんってさー、やっぱ理人に興味あんの? それも、恋してるとかそういう系?」
んなっ⁉
「ごほっごほっ。え、ええっ? い、いきなり、ナンですか?」
「あはっ、やっぱり反応が面白いね! こんなかわいい子に好かれるなんて、理人も隅に置けないなぁ」
笑顔でなんてことを聞いてくるの⁉
ビックリしすぎて動悸が止まらないよ!
思わず幸人さんを睨んだけど、彼は、わたしが瀬川くんに恋をしている前提で勝手に話を進めていく。
「真白ちゃんは、アイツにどのぐらい本気なの? 理人って、結構な認知バイアスオタクだと思うんだけどそこは平気? あーでも、自分から認知バイアスの本に興味を持って手に取りにくるってことは、そのヘンは大丈夫なのかなぁ。やっぱり、勉強して理人くんにお近づきになろう~!♡ って感じなの? うーん、理人に恋をする女の子は、大変というか難儀だねぇ」
「ちょ、ちょっとストップストップ! ま、まずっ、わたしは瀬川くんに恋をしているわけではないです!」
「あれ、そうなのー? 恥ずかしがらなくても良いのに―。理人には言わないでおくからさ」
そもそも、推しに恋をするだなんて、言語道断! 不敬も不敬!
それに、幸人さんは学校でのわたしの実情を知らないから、こんな軽口を叩けるんだよ。
友だちすらできない疫病神のわたしにとって、恋は、最も遠いものだ。
きらきらしていて、眩しくて、華やかそうで。
瀬川くんに限った話じゃなくても、わたしとは一生無縁そうな出来事って印象しかないもんね。
「……断じて恋ではないんですけど、瀬川くんが、なにを勉強してるのかは気になったんです。きっと、彼の大切な使命に関わることだろうから」
…………あっ。
幸人さんの切れ長の瞳が、めいっぱい限界まで開かれているのを見て、やっと失言に気がついた。
時が止まったかのように停止したわたしたちの間に、そよ風が通りぬける。
まずい……!
使命って口走っちゃった!
いくらお兄さんといえど、わたしが瀬川くんのひみつを知っているということをうかつに話しちゃいけなかったんじゃ!?
「使命、って……。きみ、今そう言ったよね? 真白ちゃんは、一体、理人からなにを聞いたの……?」
「あー。え、ええとぉ……、その、ごめんなさいっ! さっきのは聞かなかったことにしていただけませんか⁉」
「いやいやいや、無理だって! 口のめちゃくちゃ堅いアイツが、誰かに家のことを話したなんて、驚きすぎて心臓バクバクしてるんだけど。え、今日ってもしかしてこれから槍とか降る?」
「わ、わたしは、そのっ、悪魔とか、なんにも知りませんけど!」
はっ!
「……うーん。きみが純粋で良い子なことは間違いなさそうだけど、ウソが下手すぎるのはちょーっと心配かなぁ」
あああー! わたしのバカバカバカっ!
「はあぁ。身内のオレ相手だったから良かったものの、そのことは、本当にうかつに話しちゃいけないよ。まぁ、うっかり他人に話しちゃったところで、デタラメなことを言ってると思われて信じてもらえないのが大半だろうけどねぇ」
まぁ、それはその通りなのかもしれない。
実際にこの目で悪魔化現象を見たわたしですら、いまだに、あれが本当に現実だったのかうまくのみこめていないんだから。
幸人さんは、隣のベンチからわたしのすぐ真横にうつって、顔を寄せながらささやいた。
「きみは、悪魔化現象を、その目で見たのかな?」
ここまできて、隠すことはもう不可能だ。
観念して、うなずいた。
「……はい」
「ふーん……。そのこともしっかり記憶に残ってるってことは、もしかしてきみは……」
「あの。お兄さんも、瀬川くんと同じ、退魔師なんですか?」
「ん? あー、まぁね。……正確には、そうだった、というのが正しいけども」
過去形?
彼は、図書館で借りてきた本の入っているわたしのトートバッグを指さした。
「さっききみが図書館で借りてきた本も、何度も読みかえしたよ。認知バイアスは、退魔師にとって必修科目のようなものだからね」
「あの……今さらなんですけど、認知バイアスってなんなんですか? わたし、よくわかっていなくて」
「まあ、それはそーだよね。瀬川家の人間にとっては当たり前のことでも、中学生には、あまり聞き馴染みのない単語だと思うし」
「教えていただいても、大丈夫ですか?」
「もちろん。じゃあ、質問です。真白ちゃんは、長方形の百円玉って存在していると思う?」
長方形の百円玉?
「百円玉って、あの百円玉ですよね?」
「そうだよ~」
「存在するはずがないです。百円玉は、どう見たって丸い形をしています」
いきなりなにを言い出すんだろう。正直、バカにされているとしか思えないよ。
突拍子もない質問に首をかしげていたら、幸人さんは楽しげに笑った。
「不正解。長方形の百円玉も、見方によっては存在するよ」
「は……?」
「疑うのなら、お家に帰ってから、机に百円玉を置いて真横から眺めてごらん? 長方形に見える瞬間があるから」
「ええっ? それってなんかヘリクツっていうか、ちょっと腑に落ちないです! だって普通、百円玉をそんな風に眺めることはないでしょ?」
「それだよ、真白ちゃん」
「えっ?」
「それこそが、きみの思いこみだと言ったんだよ」
呆気にとられて、押し黙るしかなかった。
「オレらは、日常生活で硬貨を正面からしか見ないから、硬貨は丸い形をしているものだと思いこんでいるんだ。普段の生活ではそれで支障がないけれど、無意識だったでしょ? ひとはそうやって、本当はいろいろな見方ができるはずの物事を、意識せずにひとつの意味だけで受け取ってしまうことがよくある。これは、ひとが一定の認識の枠組みで、世界を眺めているからなんだよ」
「うーーん……なるほど? わかったような、わからないような感じです」
「まー、中々すっとはのみこめないよねぇ。オレも学びたてのころは、ピンとこなかったし。でもね、オレら人間は、世界をありのままに眺めているわけじゃないと知っておくことは重要だよ。人間の物事の認識のしかたは、そもそも歪んでいる。認知バイアスというのは、直訳すると、認知の歪みのこと。誰に教わったわけでもないのに、無意識のうちに陥ってしまいやすい偏った思考パターンだね」
「ふむ。ええと……その認知バイアスと、退魔師としての使命に、いったいどのような関係が?」
「真白ちゃん。悪魔化現象はどのようにして発生するかは、理人から聞いた?」
「たしか、ええと……、いきすぎたネガティブな感情でしたっけ?」
「そう。悪魔化する人間は、基本的に、なんらかの過剰な負の思いこみに囚われている。彼らの大抵は、自分の思いこみこそが世界の真理だと思っているんだ。その激しい思いこみには、なんらかの認知バイアス――偏った思考パターンが作用していることが多いというわけ。悪魔への対抗手段としては、まず彼らのネガティブな思いこみが真理とは異なるものであると認識させることが有効なんだよ。だから退魔師は、認知バイアス……つまり、ひとが陥りやすい思考の罠の勉強をさせられる」
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